(琉球新報3月20日)以下、文章がおかしくなっているところを修正。
ランダムに書いている。つぶやきとして~。
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「なはーと」が、次々面白い企画をしている。現代劇と沖縄芝居の競演である。抜擢されたのが前国立劇場おきなわの芸術監督で、芸大準教授、そして沖縄芝居実験劇場の事務局長嘉数道彦さんである。
すでに新作組踊や新作沖縄芝居の実作があり、好評を得ている。
その作品について、このブログでも、批評を書いてきた。
戦後沖縄演劇史を見据える時、戦前から沖縄芸能を継承してこられた名優の皆さん方、その愛弟子の真喜志康忠さんや大宜見小太郎さんたち、劇団乙姫のみなさん、そしてその後の「沖縄芝居実験劇場」の文化運動のような復興は伝統芸と近代リアリズム演劇の統合のような形態を編み出した。
最も50年代からすでに「ときわ座」座長真喜志は、伊集田実さんなどの影響も受け、近代演劇を作品の中に取り込んでいた。その後も伝統演劇と新しい時代の感性を取り込んだ演劇のコラボのような形態は続いてきた。
作風の中にそれは如実に表れた。小太郎さんにしてもそれらは、従来の時代劇とは異なっていたのだ。大阪演芸の色をもたらした。
復帰10年後に新しい展開が起こった。幸喜良秀さんが、大城立裕さん、康忠さん、北島角子さんたちと組んで興した「沖縄芝居実験劇場」はその流れに沿っていた。
そして沖縄芝居実験劇場の成功の上に玉城盛義さんや嘉数道彦さんや東江裕吉さんが継承してきたものが、弁証法的な推移の現在である。
わたしはアメリカ留学から戻ってまもなく大城立裕さん、幸喜良秀さん、真喜志康忠さんと懇意にお付き合いしてきた。1987年以降の実験劇場の舞台はほとんど観劇してきた。研究発表でも取り上げた。
実演、劇作、演出、つまり舞踊家&立役、劇作家、かつ演出家としてまさにすごい才能を全開させてきた康忠さんは、「ときわ座」を率いていた時に次々創作してきた。必死に座長として一座の存亡をかけてきたことが分かる。
復帰後の様相は変わってきた。その辺の演劇史の流れは割愛するとして、復帰後の「人類館」の登場と共に劇団創造の活躍は目覚ましかった。演出家幸喜が劇団潮とミニ実験劇を展開し始めた。キャパの小さいジャンジャンでだ。
その後80年代に入っての「世替りや世替りや」を経ての再演ではがらりと変わった作風になり、それが「沖縄芝居実験劇場」の旗揚げになった。
大城立裕、幸喜、北島、真喜志康忠、北村三郎、兼島道子、玉城千枝さんなど、実験劇場の誕生は、新しい文化運動になった。
21世紀になって、若い実演家が登場してきた。その中で幸喜良秀の薫陶をうけた若い実演家の皆さんが力強く育ってきた。その筆頭が嘉数道彦である。嘉数さんの新作組踊や新作沖縄芝居は、大城、幸喜や真喜志が作り上げた舞台を租借、反芻しつつ、新たな感性を埋め込んだ。
大城立裕脚本の影響ももちろん嘉数の作品には見られる。若い嘉数は大先輩のみなさんの芸、舞台、作風、演出を吸収しつつ、独自の世界を世に問うている。そこにブレヒトである。作品世界が意外と沖縄の死生観にも類似するような作品である。
モリエールの「守銭奴」が思いがけない「ぺーチンの恋人」になったように、どんな変化球で、ブレヒト作品の沖縄芝居が誕生するのか、今から楽しみだ。しかし「ぺーチンの恋人」にしても嘉数さんはしっかり、大城立裕作品からアイディアを得たことがうかがえる。嘉数さんが演じた、実演した舞台はすべからく若い才能の大きな素材になり、それがおいしい料理のように舞台に花を咲かせたのだと考えている。
実演家としての康忠芸(使命)の後継者は実は嘉数道彦さんの才覚である。