身体を動かさないとやはりどこか異常が起こるのかもしれないね。冠船芸能を継承した遊郭の女性たちを仮説ではなく、実証したいのだが、男性の芸能研究者は折口信夫の弟子?ゆえか、遊郭の女性たちの技芸を評価したくない雰囲気。それをどう解いていくか、問われているようだ。シンポジウムで取り上げた中味は入れないはずだったが、入れたくなった。
田辺さんの視点はまだ柔らかい。おそらく琉球古典音楽の大家たち、辻で三味線の稽古をしていた方々は、芸妓たちの芸を評価する柔らかさをもっていたのかもしれないね。だいぶ遊んだ方々が実は芸の真髄を獲得していたのかもしれない、アイロニーと人情があるのですね。
中国や日本、ギリシャの芸妓の絵画はセクシュアリティと直結していますね。芸の美とエロスなんですね。
しかし田辺さんは辻の芸妓の美にかなり魅了されたのですね。音楽の美、魂がとろける美と舞踊の美、美しい芸妓の姿に、ギリシャのやはりディオニュソスを思い出します。陶酔できる体験[空間]、理性より感性が真実に近いとは、あるデーターでした。
直感的知性感性がもたらす真なるものがあるのかもしれませんね。
『沖縄舞踊の歴史』は矢野さんの芸妓無視がはっきりしていますが、田辺さんの文章にもミスはありますね。認識のちょっとした間違いがあります。
しかし琉球舞踊を通史的にまとめたのは矢野さんが始めてで凄いですね。またあらたな通史が書かれていいかと思いますが、おもろの時代、古代から近世の鳥羽口まで細かく書かれています。おもろに節がついていて神女たちが謡って踊ったのです。ウチナーンチュではないヤマトンチュがしっかり沖縄の芸能に踏み込んでいい研究書を書かれていますね。もちろん完璧はなく、ミスや書き残された部分がまた埋められていくのでしょう。