(「八月十五夜の茶屋」のモデルになった上原栄子さん!)
6月16日、関西の大学で開催される研究大会で発表することになった。
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ニューヨーク、沖縄、東京で上演されたThe Teahouse of the August Moon
~1950年代半ばに上演されたこの作品は変わらない日米の位相を照らすのか?
1953年10月15日から56年3月24日にかけてニューヨークで1027回上演されたThe Teahouse of the August Moon は、50年代アメリカ演劇史を彩る。バーン・スナイダ-の小説を翻案したジョン・パトリックは、54年、この作品でピュリッツア賞、トニー賞を受賞した。ブロードウェイで大ヒット中の同年、沖縄米軍司令官(米陸軍少将)オグデンは、あえて沖縄基地内のズケラン劇場などでこの作品を上演した。オグデン少将をはじめとして多くの米軍人軍属が、そのオリジナリティーに喝采した様子が写真や新聞資料から伺える。しかし、沖縄の作家(大城立裕)や大学教授などの知識人には不評だった。そして翌55年、歌舞伎座が新派女優水谷八重子を抜擢して上演したこの英語劇は、解説もついたがやはり批評家から不評に終わった。
今回、当時の録音資料からニューヨークの観客が舞台にどう呼応したのか、具体的に台詞、場面との関係を分析し、ヒットの理由を検証したい。また沖縄、東京で不評だった背景を当時の新聞や雑誌批評から分析したい。上演された舞台写真や関連資料も参照する。そこから50年代のアメリカ、沖縄、東京の思潮が浮き彫りになり、現在とあまり変わらない50年代の地政学的位相が立ち現われてくるのではないかと考える。
1950年、朝鮮戦争が勃発。51年9月8日、サンフランシスコ講話条約が締結され52年4月28日発効、日本は戦後7年目に主権を回復した。(しかし、その後20年間沖縄は米国に占領されたままだった。)その翌53年に朝鮮戦争は終結、しかしその後に続くヴェトナム戦争を含め、アメリカのアジア観と軍隊と民主主義、その現在に続く構図が実はこの演劇作品の中に象徴的に表出されているのではないだろうか。
(具体的な日付にどんな意味があるのだろうか?日本が主権を取戻した時、1952年4月、沖縄は米軍占領の年月が、それからさらに20年続いたことになる。やれやれ!天皇メッセージは沖縄を米軍に長期リースした形で見捨てた!その後、銃剣とブルドーザーによる土地の囲い込みが激しくなった。米軍は本格的に基地の拡大・整備に邁進していったのだった。その先に54年の『八月十五夜の茶屋』の舞台化があったと言えよう。55年の東京でも、米軍人・軍属の数は結構多かったのである。それゆえに英語劇である。英語を解しない日本人が多かったに違いない。それでも英語のお芝居をやったのである。異文化接触の最たる舞台でもあった!しかし英語劇である。オリジナル演劇で、日本語もウチナーグチも飛びだした舞台である。50年代の日本、沖縄、そして米軍とのやり取りがある。)
結婚しない将校とジュリの女性は永遠の蝶々夫人の悲劇(物語)を彷彿させる。オリエンタリズムの色が襲う感じだな?
6月16日、関西の大学で開催される研究大会で発表することになった。
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ニューヨーク、沖縄、東京で上演されたThe Teahouse of the August Moon
~1950年代半ばに上演されたこの作品は変わらない日米の位相を照らすのか?
1953年10月15日から56年3月24日にかけてニューヨークで1027回上演されたThe Teahouse of the August Moon は、50年代アメリカ演劇史を彩る。バーン・スナイダ-の小説を翻案したジョン・パトリックは、54年、この作品でピュリッツア賞、トニー賞を受賞した。ブロードウェイで大ヒット中の同年、沖縄米軍司令官(米陸軍少将)オグデンは、あえて沖縄基地内のズケラン劇場などでこの作品を上演した。オグデン少将をはじめとして多くの米軍人軍属が、そのオリジナリティーに喝采した様子が写真や新聞資料から伺える。しかし、沖縄の作家(大城立裕)や大学教授などの知識人には不評だった。そして翌55年、歌舞伎座が新派女優水谷八重子を抜擢して上演したこの英語劇は、解説もついたがやはり批評家から不評に終わった。
今回、当時の録音資料からニューヨークの観客が舞台にどう呼応したのか、具体的に台詞、場面との関係を分析し、ヒットの理由を検証したい。また沖縄、東京で不評だった背景を当時の新聞や雑誌批評から分析したい。上演された舞台写真や関連資料も参照する。そこから50年代のアメリカ、沖縄、東京の思潮が浮き彫りになり、現在とあまり変わらない50年代の地政学的位相が立ち現われてくるのではないかと考える。
1950年、朝鮮戦争が勃発。51年9月8日、サンフランシスコ講話条約が締結され52年4月28日発効、日本は戦後7年目に主権を回復した。(しかし、その後20年間沖縄は米国に占領されたままだった。)その翌53年に朝鮮戦争は終結、しかしその後に続くヴェトナム戦争を含め、アメリカのアジア観と軍隊と民主主義、その現在に続く構図が実はこの演劇作品の中に象徴的に表出されているのではないだろうか。
(具体的な日付にどんな意味があるのだろうか?日本が主権を取戻した時、1952年4月、沖縄は米軍占領の年月が、それからさらに20年続いたことになる。やれやれ!天皇メッセージは沖縄を米軍に長期リースした形で見捨てた!その後、銃剣とブルドーザーによる土地の囲い込みが激しくなった。米軍は本格的に基地の拡大・整備に邁進していったのだった。その先に54年の『八月十五夜の茶屋』の舞台化があったと言えよう。55年の東京でも、米軍人・軍属の数は結構多かったのである。それゆえに英語劇である。英語を解しない日本人が多かったに違いない。それでも英語のお芝居をやったのである。異文化接触の最たる舞台でもあった!しかし英語劇である。オリジナル演劇で、日本語もウチナーグチも飛びだした舞台である。50年代の日本、沖縄、そして米軍とのやり取りがある。)
結婚しない将校とジュリの女性は永遠の蝶々夫人の悲劇(物語)を彷彿させる。オリエンタリズムの色が襲う感じだな?