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ピーター・ブルック特集の『悲劇喜劇』に沖縄を題材にした「ライカムで待っとく」「カタブイ、1972」の戯曲が掲載されている!

2023-01-14 01:46:54 | 沖縄演劇
『悲劇喜劇』はアマゾンで注文したらすぐ届いた。
県立図書館も琉球大学図書館も、県立芸術大学もどこも雑誌『悲劇喜劇」を置いていない、という事実に唖然とした。ゆえに自分で注文した。そういえば「9人の迷える沖縄人(ウチナーンチュ)」は『悲劇喜劇』の2022年9月号に掲載されている。何回か観たので購入しなかったが、初期の台本は当山さんからコピーで以前頂いた。じっくり脚本を論として書いていないが、一応劇評はこのブログに書いた。沖縄現代演劇論を書かないといけないと、思いつつ時だけが過ぎていく。

昨今沖縄の現代演劇は活気がある。やっと、新しい戯曲の秀作が誕生だろうか。昨日は風邪で体調がずっと悪いが、兼島拓成の作品と内藤裕子の作品を読んだ。ついでに「9人の迷える沖縄人」も読み返そうと思いつつ、脚本を入れていた書類が見つからなかった。見つけなければ~。

岸田戯曲賞が誕生してほしい。兼島さんは可能性大だね。戯曲賞として3作品を比較したら、「カタブイ、1972」が落ちて、「9人の迷える沖縄人」と「ライカムで待っとく」だが、戯曲として優れているのは「ライカムで待っとく」だが、舞台を観ていない。劇団も沖縄の劇団ではない。熱気は「9人~」だね。

両作品、復帰50年記念で岸田戯曲賞が授与されたらいいと思う。
作品の中身にコミットしたい。

まず「カタブイ、1972」はタクシーの運転手でありながらサトウキビ農家でもある波平誠治一家の物語。1971年から72年復帰記念日までの物語。リアリズム演劇の手法で、波平家の面々を中心に描いているけれど、既視感があり、筋書きの凡庸さに面食らう。当山ユミが分かれた元夫に殺される終幕の悲劇もなぜかインパクトが弱い。殺す必要があったのか?民謡や踊りのうちなーの色合いも悪くはないが、斬新さがない。「ライカムで待っとく」を読んだ後に読んだせいかもしれないが~。沖縄と東京で公演があった。沖縄の公演は見逃してしまったが、戯曲を読んで、観るほどのこともなかったと思う。

評判のいい「ライカムで待っとく」は、舞台を観たかった。戯曲をさっと読んだ印象は、その斬新な構成と演劇ならではの時空間の移動や重なり、ミステリアスなワクワク感で引き込まれていった。ことばや構成が重なって物語の収束にいたってすべてがつながってくる不思議なトリックを見せられる。首里城明渡しの明治12年からから沖縄戦、米軍占領、そして現在に至る歴史の経緯がすんなり盛り込まれる。なぜ米兵は殺されたのか、その主犯の者たちが登場する、彼らの過去と現在が雑誌記者の浅野と同じ空間で会話する筋書き。物語、犠牲の島おきなわの物語、は続いていく。

「人類館」の繰り返す無限サイクルのダークコメディーとも異なるこの、沖縄という物語は、物語として繰り返される。その物語を黙認している本土のマジョリティーの姿も照らされていく。現実は物語を超えていく。現実は物語より酷い。より酷くない方を選ぶ。犠牲の島沖縄がなければならない日本という国家の存在が浮かび上がってくる。近未来の戦場が想定された日本のバックヤードの島おきなわ、日本国のアメリカの青写真がすでにそこにある。でもその犠牲の物語は誰にも読まれちゃいけない。隠されていなければと兼島は書く。すごいアイロニーだ。ニヒリズムの極限にも思えることばがならぶ。それが突き刺している対象はマジョリティーの日本(人)。

台詞の中にアイロニーが散りばめられている。ある面、冷めた開き直りにも諦観にも聞こえる。「こういうふうになるよって、なっているから」「これで自分なんか琉球人も、日本人ですね。晴れて。自由に使ってください。ここ」

そして現在の辺野古の埋め立てへの抗議の場面。機動隊が「もうこの後どうなるか決まっているんですけど、認めよとしないんですよ、これなんかは。だからね、どいてって言っても、どかない。」

戦闘機の重音が沖縄の現実を叩きつけるようだ。それは3作品に共通する。島全体を覆い尽くすステレス戦闘機や以前核を搭載していたB52,そしてオスプレイの爆音などが劇場で耳をつんざく。現実の沖縄だ。

データもアーカイブのネット用語も登場する。
ほどよいウチナーヤマトグチがいい。境界、水平線、ニライカナイ、戦時中の子殺し、虐殺、レイプ、戦後も含め登場する。台詞は平易に展開していくが場面は過去と現実が入り交じる。メタシアターでもあり、スリリングで、死者と生者が共存する空感でもある。不気味さもせり出してくる。現在の沖縄や日本のリアルは不安と不気味さ、不穏さが漂っているのも肌感覚で迫ってくる。

明治時代の「人類館事件」から1976年の海洋博まで時系列を無視して沖縄の近代から現代を鋭く不条理劇のスタイルで描いた知念正真の『人類館』から1964年の米兵殺害事件から2022年現在の沖縄を時系列を無化して描いた「ライカムで待っとく」が誕生した。

昨今WEFのシュワブ会長の顧問だというユバル・ノア・ハラリがさかんに宗教も信条もあらゆる現象や概念、伝統も含め、文化や科学技術も物語だという著書を出して以来、すべてが物語(フィクション・虚構)に包摂されているキライがある。多様な物語が漂っている歴史の現在。「皆が同じ物語を信じることができれば、規範に従って大規模な範囲で協力し合うことができる」と、ユヴァル・ノア・ハラリは「物語」の重要性を説いてきた。 兼島さんは「犠牲の島沖縄」という物語を編んだ。

その物語は繰り返されていくのか?人類館が繰り返される循環構造の中にあって断ち切れないように~。人類館は繰り返されるシステムの中軸に天皇を据えていた。兼島さんは冷めたずらした視線で沖縄物語を見据えているようにも思えるが~。そこからの出口はどこにあるのだろう。メッセージはシンプルだ。贄の島、沖縄物語をこれでもか、と突きつける。

「9人の迷える沖縄人」についてはすでにこのブログで印象批評を書いたのでここでは割愛したい。戯曲を読み直して中身を吟味することは必要だと思う。
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「人間は物語を創作し、そのなかの一定の役割を担うことに自分の生の意味を見出す動物である。これは先に述べた共同主観性のことであるように思われる。物語を創作できる人間の能力こそが大規模協力行動や文明構築を可能にしてきた秘密である。しかし、人間が作り上げてきた物語は、ほとんど例外なく不完全なもので,究極的な根拠を欠いていて,矛盾に満ちたものであった。それでも人間にとっては,自分の生の意義を見出すには十分なものだとハラリは透徹する。しかし、こうした出来の悪い物語に自己投影することが、人間を不幸にしてしまうのである。たとえば,殉教者のことを考えてみるとよい。」【ユヴァル・ノア・ハラリを読む】 ハラリの「虚構」概念をめぐって ―─ヘーゲルとガブリエルを参照しつつ|Web河出

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