沖縄芸能にみるジュリ(芸妓)の表象/表象されたジュリ → 題名は変わる可能性を残しています。≪ジュリ(芸妓)の表象≫などもいいですね。
2015年 3月10日午後5時~午後9時
沖縄県立博物館・美術館講堂
以下は基本案ですが、今後多少の変動はありえます。
1672年、琉球王国の宰相羽地朝秀によって辻と仲島に遊里が設立されて以来琉球王府が滅亡するまでの207年間、そして近代の帳1879年からアジア太平洋戦争の敗戦に至る66年間、那覇に遊郭が実在した。
バリ島の劇場国家に類似して琉球国は藝能を外交の要に置いた。
[←松島康勝さんのいい論文がネットで読めます。『劇場国家におけるミメーシスと暴力の論理(上)(下)]
国家(表)の芸能に対して、遊里(遊郭)、そこで日夜繰り広げられた芸能は表のシャドー≪影≫を余儀なくされたが、しかし、辻、仲島ではジュリ(芸妓)が芸能の美(芸)を競い、常に時代の感性を取り込んだ歓待芸能が披露されたのである。芸妓は冠船芸能の羽踊りを踊った。そして彼女たちの奏でる歌・三線は古典音楽から民謡まで鳴り響かせた。時に辻では組踊もまた演じられたことが資料から見えてきた。1768年には那覇で仮設舞台が設営されそこで当時の念仏踊(芸能)が薩摩在番の肝いりでなされている。ジュリは主体として仮設舞台で、そして座敷で踊った。
そして廃藩置県後、日本の遊郭制度による体系化がなされながら、近世から築き上げた独自のシステムが踏襲された。しかし近代の溢れるエネルギーは新たな舞台芸術=沖縄芝居(大衆演劇)を花風や金細工の雑踊りを芝居小屋から生み出した。辻遊郭とその界隈の芝居小屋は一躍沖縄の文化の焦点になっていった。ジュリ(芸妓)の名前も登場してきた。秘匿された存在ではなく、名前をもった主体として、芸妓は自らの芸を生きる糧にし、非日常的ハレの空間に耐え(取り込み)、芸を磨いてきた。
その芸の代表が上間郁子であり糸数カメ、山入端つる(やまのは・つる)、仲里陽史子だった。このシンポジウムは文科省・科研研究『沖縄の文化表象にみるジュリ(遊女)の諸相』<2537017>(2023.4-2016.3)の研究成果の一端のご報告である。(本課題は琉球王国近世から現代に至る「ジュリの表象」の「多様な諸相」の検証を目的とする。)
概要(予定)
☆主体(芸妓)としての上間郁子、師匠玉城盛義を語る (対談形式玉城―与那覇)
玉城盛義と愛弟子たちー上間郁子、糸数カメ、翁長タマ子、他
創作舞踊ドラマ「炎の女」について (玉城秀子)
☆女性唄者の魅力、民謡の中のジュリの表象(上原直彦)【仮題】←残念ですが、上原さんは、3・4(三線の日)やRBCの60周年記念イベントなどでお忙しくお話しが厳しくなりました。ほかに民謡にお詳しい方に登壇していただく予定です。この企画は来春までに確定できるようにする予定です。心根の優しい上原さんは、きれいな花だけではないんだよ、と電話口でお話しされていて、それがとても印象的でした。そうですよね、でも、しかし、歴史の推移の中でのジュリの芸をわたしは表に出したい(芸能史の中にしっかり位置づけたい)のです、とお答えしたがー。厳しいですね。
☆「花風」の実演と花風についての実演者の視点からの研究発表 比嘉いずみ
☆舞踊「金細工」 劇団うない団長中曽根律子、久米久子、比嘉一恵 ≪歌って踊ります。小歌劇ですね。>
☆舞踊「薙刀」花岡尚子 (渡嘉敷流、劇団「うない」所属)
☆民謡――未定(三曲ほど)
☆戦前・戦後のジュリ馬映像紹介
☆研究発表 与那覇晶子 「遊郭に見る近代沖縄芸能研究: 遊郭、ジュリ、芸能」(仮)
「辻遊郭」ー近代沖縄芸能の母胎については以前話す機会があったがー。
仲嶺絵里奈 「写真に見る芸妓とその芸能」
世良利和 「映像に見る芸妓とその表象」
琉球大学学生 「芸能の継承としての遊郭」(仮)
(現在の予定です。若干変更がありえます!)
★2015年3月10日は旧廿日正月(ジュリ馬)の日、当日になります。
ジュリ馬を応援しています、
詳細に関しての連絡は nasaki78@gmail.come へ