東アジア共同体研究所(EACI) News Weeky Vol.073 「青い眼が見た大琉球 no.3」】
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EACI News Weekly 第73号(6月3日号)
東アジア共同体研究所(East Asian Community Institute )
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【目次】
【1】《今週のニュース 5/28-6/3》
政治(3)、経済(2)、国際(3)、社会(3)
【2】《UIチャンネル放送予告 No.154》
第154回UIチャンネル放送 LIVE対談 鳩山友紀夫×木村朗「核の戦後史」
http://live.nicovideo.jp/watch/lv265072695
【3】《EACIレポート》
孫崎享所長が著書「21世紀の戦争と平和: きみが知るべき日米関係の真実」を発売
http://www.amazon.co.jp/dp/4198641757
【4‐1】《研究員コラム》
瑞慶覧長敏(東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター事務局長)
「事務局長日記no.4」
【4‐2】《研究員コラム》
緒方修(東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター長)
「青い眼が見た大琉球 no.3」
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【1】《今週のニュース 5/28-6/3》
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【政治】
■<辺野古決定>政権の本音 梶山元官房長官、98年に書簡
(毎日新聞 2016.6.3)
http://mainichi.jp/articles/20160603/k00/00m/040/146000c
■参院選、32の全1人区で野党共闘 来月10日に投開票予定
(東京新聞 2016.6.1)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201606/CK2016060102000119.html
■事件の対策は街路灯? 政府への不信強める沖縄
(沖縄タイムス・渡辺豪 2016.6.2)
http://www.okinawatimes.co.jp/cross/index.php?id=424&f=sr
【経済】
■ <伊勢志摩サミット>「リーマン前」に批判相次ぐ
(毎日新聞 2016.5.28)
http://mainichi.jp/articles/20160529/k00/00m/020/023000c
■「ポピュリストになるか」 増税、首相に迫った麻生氏
(朝日新聞 2016.6.3)
http://www.asahi.com/articles/ASJ6255C8J62UTFK00G.html
【国際】
■旧敵国ベトナムに塩を送る武器禁輸解除の真意
(Newsweek 2016.6.2)
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/06/post-5231.php
■オバマ氏訪問「選挙対策」 広島市民に冷めた目
(琉球新報 2016.5.30)
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-288315.html
■高高度防衛ミサイル韓国配備、「近く」発表か
(ロイター 2016.6.3)
http://jp.reuters.com/article/asia-security-usa-korea-idJPKCN0YO2DD
【社会】
■差額5倍 辺野古の海上警備人件費、業者が過大請求疑い
(琉球新報 2016.6.1)
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-289553.html
■「基地ある限り必ず起きる」 辺野古の金城さん 42年前、米兵が母殺害
(琉球新報 2016.5.30)
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-288881.html
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【2】《UIチャンネル放送予告 No.154》
第154回UIチャンネル放送 LIVE対談 鳩山友紀夫×木村朗「核の戦後史」
http://live.nicovideo.jp/watch/lv265072695
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
第154回UIチャンネル放送は、2回目の出演となります鹿児島大学教授の木村朗氏をお招きして鳩山友紀夫×木村朗「核の戦後史」 を生放送でお送り致します。
《木村朗氏プロフィール》
鹿児島大学教員、平和学専攻。1954年8月生まれ。北九州市小倉出身。
著作:単著『核の戦後史』、 『危機の時代の平和学』、編著 『核の時代と東アジアの平和―冷戦を越えて』、共著 『時代のなかの社会主義』 『ナショナリズムの動態』 『自分からの政治学』 『国際関係論とは何か』 『新時代の国際関係論』(いずれも、法律文化社)、『ペレストロイカ』(九州大学出版会)、 『地域から問う国家・社会・世界』(ナカニシヤ出版)、『21世紀の安全保障と日米安保体制』(ミネルヴァ書房)、『人はなぜ戦争をしたがるのか―脱・解釈改憲』(金曜日)、 『市民講座 いまに問う ヒバクシャと戦後補償』 凱風社、編著 『米軍再編と前線基地・日本』、同 『 9・11事件の省察―偽りの反テロ戦争とつくられる戦争構造』 『メディアは私たちを守れるか?―松本サリン・志布志事件にみる冤罪と
報道被害』(いずれも、凱風社)、他。
番組内では質問を受け付けておりますので、コメント欄またはinfo@eaci.or.jpまでお寄せ下さい。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【3-1】《EACIレポート》
孫崎享所長が著書「21世紀の戦争と平和: きみが知るべき日米関係の真実」を発売
http://www.amazon.co.jp/dp/4198641757
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
6月14日、徳間書店から、「21世紀の戦争と平和: きみが知るべき日米関係の真実」が発売されます。孫崎所長のメルマガ「孫崎享のつぶやき」では、執筆のきっかけや著書の読みどころが書かれていますので一部を紹介します。
「日本が崖っぷちにある中で、松井久子監督が、参議院選挙の前に、普段政治を語らない多くの国民に憲法を知ってもらおうと映画「不思議なクニの憲法」を作られたように、「泥棒が入るから戸締りが必要。だから軍事力増強や集団的自衛権が必要」と言う様な乱暴な議論で堂々と憲法違反をする現在の在り様に、根本に戻ってどうしたら日本の安全保障を確保できるかを書いてみたのが、この本です」
そして、『21世紀の戦争と平和』の読みどころとして孫崎所長は、以下のように紹介しています。
「2016年6月、改正された公職選挙法が施行され、選挙権年齢が「18歳以上」に引き下げられます。本書はその新世代のひとたちも念頭に置いています。戦後の日本をひも解けば、避けがたくアメリカの世界戦略が顔を出してきます。わたしたちが暮らす日本の現状を把握するには、戦後、現在、そして未来を貫くアメリカという国の特性を知る必要があります。日米関係を抜きに「日本の在るべき姿」に思い巡らせることは難しい、というよりも不可能です。本書の射程は戦後から未来まで広範囲に及びます。その意味で日米関係を知るうえでこれ以上ないテキストです。ただしひとつお願いがあります。本書で展開される言説は鵜呑みにしないでください。あくまで自分の頭で考えるための手掛りとして利用してください。
それが本書にこめた編集者の(そしておそらく孫崎さんの)いちばんの思いです。まずは知ることから。すべては小さな一歩から――。」
ぜひご一読下さい。
■21世紀の戦争と平和: きみが知るべき日米関係の真実(徳間書店・2016/6/14)
http://www.amazon.co.jp/dp/4198641757
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【4‐1】《研究員コラム》
瑞慶覧長敏(東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター事務局長)
「事務局長日記no.4」
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もう一つの暴動。
コザ暴動は良く知られている。少なくとも沖縄の50代以上であれば、大抵が知っている。
1970年12月未明にコザ(現沖縄市)で起こった住民による暴動だ。直接のきっかけは、その日に起こった米軍人車両による交通事故だが、それまでの住民の不満が一気に爆発したことによる。
人権無視、無罪放免、沖縄での自治は神話だとやりたい放題の米軍に、ついに堪忍袋の緒が切れる瞬間だ。おとなしいと思ったら大間違い、見くびるなよと。
米軍車両をひっくり返し火をつけ、新たな車両を見つけては又火をつける。おとなしいと言われていた沖縄人が殺気に満ちた表情で、“ウッター タックルセー”(こいつらやっつけろ)と次々に車両を破壊し、手の付けられない状況になっていった。今でも沖縄での語り草の一つだ。
同じような暴動が1954年11月に沖縄刑務所の中で起きていた。刑務所の中での待遇の悪さに受刑者が反発、扉、壁、ガラス窓などを破壊し、刑務所に籠城してしまった。沈静化するのに5日間かかっている。
当時の沖縄刑務所は、200人の定員に千人が放り込まれていた。だから受刑者が怒るのも無理はない。しかし、なぜ千人も詰め込まれていたのか。受刑者と瀬長亀次郎(当時人民党委員長)のやりとりが残っているので紹介する。「米軍占領下の沖縄刑務所事件」月刊沖縄社1983年発行より抜粋、
瀬長 きみは何年か
二郎 一年だ
瀬長 なにをやったのか
二郎 米軍財産の不法所持だ
瀬長 なにをとったのか
二郎 干しブドウに泡盛を注いでつくった酒三合びん一本を米兵にやって、スコップ一本と交換して、そのスコップで畑をたがやしていたら、MP(憲兵)につかまった
瀬長 それはひどい。それにしても、スコップ一本で懲役一年か
三郎 先生はどんな罪ですか
瀬長 犯人隠匿ほう助罪だ
三郎 なんですか、それはー
瀬長 アメリカは、日本復帰運動をきらっている。それで、復帰運動をやっている人民党員に、四十八時間以内に沖縄を立ち去れ、と命令を出して、その人をかばったから罪だというわけだ
三郎 そんなことで、二年もの罪とはひどい
罪とも言えないたわいもない件で住民をしょっぴき、一方で、政治のリーダーには難癖をつけて刑務所に放り込む。正に植民地だ。
余談だが、その暴動に瀬長亀次郎が直接かかわったわけではない。たまたま時を同じくしてそこに居合わせていたのだ。本を読むと、刑務所側も受刑者側も、カメさんに(瀬長亀次郎ニックネーム)仲介役を頼んでいる。
所長と受刑者たちのやりとりだ。
(そうだ瀬長亀次郎がいた。職員の手ではもうどうにもならんから、瀬長に説得させてみよう。・・・受刑者たちが尊敬している瀬長亀次郎だ。わしの言うは聞かなくても亀次郎の言うことは聞くだろう)
(そうだ、亀さんにまかせろ。亀さん頼むぞ。しっかりやってくれ)
彼がいかに大衆に信頼され、そして支持されていたのかがよく分かる。米軍はそれをこそ警戒していたわけだ。
この本の著者は、瑞慶覧長和(ずけらん ちょうわ)さん。刑務所の看守だった方で、刑務所側からのジレンマも伝わってくる。表紙には、“長嶺健次君、瀬長亀次郎 一九八四年元旦”とカメさん直筆のサインも記されている。
私の父親、長方が言うにはこの本は、長嶺健次さんが持参して家に置いて行ったとのこと。
沖縄の置かれている状況は、いかほど変わっただろうか。
堪忍袋の緒は切れまくっている。
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【4-2】《研究員コラム》
緒方修(東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター長)
「青い眼が見た大琉球 no.3」
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1816年、バジル・ホールが来琉し「朝鮮・琉球航海記」(以後、航海記と略)を著した。イギリスに帰国後、2年間の休暇を主にヨーロッパで過ごした。1820年より南アメリカに勤務。「チリ、ペルー、メキシコ沿岸における航海日記の抜粋1820,21,22」を発表。これはダーウィンがビーグル号で航海した時に参考にしたらしい。チリのコキンボ付近の「ホールがはじめて注意した」階段状の台地を調査した。(航海記・解説より)
1825年に結婚し、一男二女に恵まれた。長女がウィリアム・チャールズ・チェンバレンと結婚し、その息子が日本・琉球文化研究で有名なバジル・ホール・チェンバレンである。つまりチェンバレンにとってバジル・ホールは外祖父にあたる。
ホールは1844年に精神に異常をきたし、44年に死去。55歳であった。
出世作となった航海記は、偶然の数カ月の余裕から生まれた。アマースト使節団を中国へ送り届けるためにアルセスト号とともにライラ号に乗船した、ところが中国側は自らの責任で国外退去まで面倒を見る習慣であり、北京から大運河で杭州へ、さらに江西省経由で広東に抜ける経路が定められていた。そこで上記の2隻の軍艦は余裕が出来、朝鮮・琉球をめざしたのである。それ以前にアルセスト号は広東で砲撃事件をひきおこしている。
「商船員であるかを問わず、海の男なら誰であろうと中国人を友好的な人種とはみなしていない。彼らの領土に入るやいなや、つねに戦時下のような不信にみちた扱いを受けてきたからである。」
そしてついに広東省の要塞「虎門塞」で事件が起きる。
「アルセスト号は、相手がすべての大砲を撃ち込んでくる寸前に、機先を制して沈着に狙いすました片舷一斉射撃を加えた。彼らの上に32ポンド砲を雨のように降らせ、同時にわれわれは耳を聾せんばかりの雄たけびを三度あげたのである。」(航海記・付録二 ジョン・マクロード アルセスト号航海記抄)
アマースト使節団の態度を見ると、中国では砲撃、琉球では「友好的」と、違いが際立つ。
この背景にあるのは、「アマースト使節は、中国の嘉慶帝の宮廷において、臣下が皇帝に対して行う正式の儀礼である三跪叩頭(さんきゅうこうとう)の礼を要求され、これを拒絶したため、皇帝の謁見さえ許されずに、北京に入ったその日のうちに退去を命ぜられ、外交交渉の糸口さえ得られぬまま、帰国せねばならなくなった。」(航海記・解説より)
これ以降、中国のイギリスに対する態度は手のひらを返すように変わった。礼を失する者は人間ではない。野蛮人は直ちに出て行け、と冷たい態度を取り続けたのだ。
アマースト使節団の一人が日記を残していた。バジル・ホールの航海記にも名前が出てくる
クリフォードだ。
クリフォード訪琉日記
バジル・ホールが艦長のライラ号には、親友のハーバート・ジョン・クリフォードが乗船していた。英国海軍尉官の彼は日記を残していた。浜川仁・沖縄キリスト教学院教授がイギリス・ポーツマスの国立英国博物館のライブラリーで見つけた。バジル・ホールの航海記を補完するものだ。(不二出版より2015年10月31日発行)
200年前の日記は,出版に至ってはいないようだが、英国海軍は航海の際に参考にしていた。先達の記録を継承する伝統のようだ。クリフォードは公務から自由、その代わり給料は半額という条件だった。英国海軍のリストラ政策のあおりを食らったのだ。
「ナポレオン戦争直後から始まった軍縮は、4000人いた尉官のうち、仕事にありつけるのは8人に一人だけというありさま」だった。
ホールの航海記に比べて自由な筆致が感じられるのは、公務から外れて(外されて?)いたことにもよるだろう。
クリフォードの功績としては「琉球語彙」の収集である。前回紹介した「朝鮮・琉球航海記」には付録としてクリフォードによる琉球語彙が付いていたのだが、翻訳にあたり水路誌、科学上の覚え書きと共に省略されている。
当時のイギリス海軍の派遣は学術的な使命を負っているのが普通であった。初めて行く土地だから陸海の地理、文化、植物、動物などの調査は当然だ。学術的調査、といっても同時に大英帝国の政策の影響は免れない。
同時期(1822年)にシンガポール実験植物園が開園。イギリス本土の王立キュー植物園(シンガポール、イギリス両方の植物園とも世界遺産)と連携しながらゴムの樹を栽培し、ゴム・プランテーションの大発展の文字通り種を撒いた。マラリアが猛威を振るっていた土地でのプランテーション経営は、特効薬キニーネなくしてはあり得なかった。(ただしキニーネはイギリス人の植民地経営者にのみ処方された)後に訪れる自動車の時代に、ゴムの樹の大量栽培は、タイヤを生産し、自動車産業を支える大プロジェクトの基盤となった。
ゴムやキニーネに限らず食用、薬用、趣味嗜好用の有用な植物が未知の土地にあるかもしれない。当時は化学合成で薬や肥料を生み出す時代ではない。未知の植物を探す「プラント・ハンター」が航海に随伴していたことは間違いない。
「女が見えたぞ!」
さて琉球の人々は、そんな生き馬の目を抜くような「近代」とは無縁。
琉球王府は必死で異国船と人々との接触をさせないようにした。特に女性は一切目にふれないように隠した。ところがクリフォードはちゃんと「高性能の望遠鏡の助けをかりて自分を慰めている。」「ここらあたりの国々の女性たちときたら、どこでも見知らぬ人間が近づくと飛ぶように逃げて行ってしまう。そこで、現在ぼくらが停泊している岸から近距離のところで、簡単に彼女たちの一挙一動を観察しているというわけだ。」
クリフォードの女性観察の例をあげよう。那覇港湾へ上陸した時のこと。
「反対側では、ぼくらを眺めようと集まった女たちがずらりと並んでいた。」
大急ぎで駆け寄る動きから、中国のように纏足(てんそく)をしていないことに気付く。
「女たちの足首はよく整っていて、おなじく健康な美脚を見せていて、衣服はぼくらの国で今年の始めに流行していた服と同じくらい短いものだった。女たちの大半は腕に子どもを抱えており、男たちよりずっと色白で、肉づきがよく、丸みのある顔で、頭の右側に束ねた髪は、後ろの方に男たちよりも豊かにあった。」
ところでこの航海にはたった一人女性が乗っていた。アルセスト号のボースン(掌帆長)の妻である。彼女は当然ながら琉球人たちの好奇心の的となった。しかしクリフォードは女性の美醜にいささか厳しい。
「ぼくが残念に思うのは、もっと出来のよい標本をお見せできないことである。この標本についていえば、その立ち居振る舞いは、彼女の身分からすれば並外れて好ましく、彼女の物腰も謙虚で適切ではあるのだが、ぼくの危惧しているのは、琉球の人たちに、イングランドの女たちの皆がこの類ではないことを、どうしても分かってもらえないかもしれないということだ。」
つまりあんなブスがイングランドのレディと思われてはたまらない。イギリスにはもっと美人がいるぜ、と言いたいのだ。
その後、彼女は選択桶を使っている姿を見られ「現地の人びとをびっくり仰天させた。」
行く先々で役人たちが住民たちを追い払っていた。運天港に上陸した時のこと。琉球の農民が快適な暮らしを営んでいることを実感する。馬小屋には小型の馬が2頭、同じ屋根の下に豚が数匹。家禽の飼育も十分。
「小さな建物があって、その中には穀物のための木製脱穀機がみられ、二本の円筒状の丸太(一方は中空で、もう一方はそうでない)には上下に溝が掘ってあり、互いを嵌めこんである。(注・米や粟から籾を取り除く機械)穀物を上に乗せて挽くための石具もあった。近くにはカゴに綿が入っているのを見かけた。
これらすべてが、人びとが仕事をしていたところを大慌てで余所へやられてしまったという雰囲気を醸しだしていた。間違いなく女たちでどこかへ閉じこもっているのである。例外といえば二、三人の老婆だけで、これほど醜い女たちには、ぼくはお目にかかったことがなかった。この女たちが近づくと見るやいなや、男たちが慌ててどこかへ追いやってしまった。」
せっかく近くで見ることが出来た女は、超ブス。クリフォードの失望が伝わってくる。
この時期のイギリスでは、ようやく女性の権利が唱えられつつあった。
フランス革命と産業革命を端緒に、18世紀末頃から芽生えはじめた女性解放思想が、男性の従属物としてあらゆる権利を制限されていた英国の女性たちをいかに突き動かし、参政権獲得という具体的目標に向けて形をとりはじめたのか。本書は、男女平等の人権を求めるメアリー・ウルストンクラフト『女性の権利の擁護』刊行の1792年を起点におき、さまざまな史実や人物群像を描き出しつつ、英国で女性の普通選挙権が実現した1928年に至る道程を活写した古典的名著(原題The Cause)待望の初訳である。
これは「イギリス女性運動史」(レイストレ一チー著 みすず書房)の案内だ。産業革命は女性を家庭から工場へ引き出し、労働力として育てつつあった。当然、女性の権利の擁護も伴う。イギリスの初期社会主義者ロバート・オーウェンが1800年にスコットランドのニューラナークに紡績工場(世界遺産)を作り成功した。労働者の環境改善に努力したが、必ずしも成功した訳ではない。マルクスからは空想的社会主義と揶揄された。
ともあれクリフォードが育ったイギリスは、女性の権利が主張され始めた時期だった。
「真栄平から学んだことだが、この国の人びとに妻はひとりだけであり、側室が認められているのは、国王だけである」
「人びとが中国の慣習について敬意を欠く物言いをするのを耳にして、ぼくらはしばらく驚かされた。特に妻や側室が複数いるという習慣については、大変批判的である。」
こうした記述からはイギリスで勃興し始めたフェミニズムの影響と、琉球の人びとの女性蔑視の少なさに好意を抱いている様子がうかがえる。
クリフォードは帰国後、ほとんど独力で英国海軍琉球伝道会を設立した。そしてイギリス国教会の宣教師を琉球に派遣する。派遣したのはユダヤ系の変人・ベッテルハイムであった。彼の功績とひきおこしたトラブルについては別に記すことにする。
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《木村朗氏プロフィール》
鹿児島大学教員、平和学専攻。1954年8月生まれ。北九州市小倉出身。
著作:単著『核の戦後史』、 『危機の時代の平和学』、編著 『核の時代と東アジアの平和―冷戦を越えて』、共著 『時代のなかの社会主義』 『ナショナリズムの動態』 『自分からの政治学』 『国際関係論とは何か』 『新時代の国際関係論』(いずれも、法律文化社)、『ペレストロイカ』(九州大学出版会)、 『地域から問う国家・社会・世界』(ナカニシヤ出版)、『21世紀の安全保障と日米安保体制』(ミネルヴァ書房)、『人はなぜ戦争をしたがるのか―脱・解釈改憲』(金曜日)、 『市民講座 いまに問う ヒバクシャと戦後補償』 凱風社、編著 『米軍再編と前線基地・日本』、同 『 9・11事件の省察―偽りの反テロ戦争とつくられる戦争構造』 『メディアは私たちを守れるか?―松本サリン・志布志事件にみる冤罪と
報道被害』(いずれも、凱風社)、他。
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【3-1】《EACIレポート》
孫崎享所長が著書「21世紀の戦争と平和: きみが知るべき日米関係の真実」を発売
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6月14日、徳間書店から、「21世紀の戦争と平和: きみが知るべき日米関係の真実」が発売されます。孫崎所長のメルマガ「孫崎享のつぶやき」では、執筆のきっかけや著書の読みどころが書かれていますので一部を紹介します。
「日本が崖っぷちにある中で、松井久子監督が、参議院選挙の前に、普段政治を語らない多くの国民に憲法を知ってもらおうと映画「不思議なクニの憲法」を作られたように、「泥棒が入るから戸締りが必要。だから軍事力増強や集団的自衛権が必要」と言う様な乱暴な議論で堂々と憲法違反をする現在の在り様に、根本に戻ってどうしたら日本の安全保障を確保できるかを書いてみたのが、この本です」
そして、『21世紀の戦争と平和』の読みどころとして孫崎所長は、以下のように紹介しています。
「2016年6月、改正された公職選挙法が施行され、選挙権年齢が「18歳以上」に引き下げられます。本書はその新世代のひとたちも念頭に置いています。戦後の日本をひも解けば、避けがたくアメリカの世界戦略が顔を出してきます。わたしたちが暮らす日本の現状を把握するには、戦後、現在、そして未来を貫くアメリカという国の特性を知る必要があります。日米関係を抜きに「日本の在るべき姿」に思い巡らせることは難しい、というよりも不可能です。本書の射程は戦後から未来まで広範囲に及びます。その意味で日米関係を知るうえでこれ以上ないテキストです。ただしひとつお願いがあります。本書で展開される言説は鵜呑みにしないでください。あくまで自分の頭で考えるための手掛りとして利用してください。
それが本書にこめた編集者の(そしておそらく孫崎さんの)いちばんの思いです。まずは知ることから。すべては小さな一歩から――。」
ぜひご一読下さい。
■21世紀の戦争と平和: きみが知るべき日米関係の真実(徳間書店・2016/6/14)
http://www.amazon.co.jp/dp/4198641757
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【4‐1】《研究員コラム》
瑞慶覧長敏(東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター事務局長)
「事務局長日記no.4」
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もう一つの暴動。
コザ暴動は良く知られている。少なくとも沖縄の50代以上であれば、大抵が知っている。
1970年12月未明にコザ(現沖縄市)で起こった住民による暴動だ。直接のきっかけは、その日に起こった米軍人車両による交通事故だが、それまでの住民の不満が一気に爆発したことによる。
人権無視、無罪放免、沖縄での自治は神話だとやりたい放題の米軍に、ついに堪忍袋の緒が切れる瞬間だ。おとなしいと思ったら大間違い、見くびるなよと。
米軍車両をひっくり返し火をつけ、新たな車両を見つけては又火をつける。おとなしいと言われていた沖縄人が殺気に満ちた表情で、“ウッター タックルセー”(こいつらやっつけろ)と次々に車両を破壊し、手の付けられない状況になっていった。今でも沖縄での語り草の一つだ。
同じような暴動が1954年11月に沖縄刑務所の中で起きていた。刑務所の中での待遇の悪さに受刑者が反発、扉、壁、ガラス窓などを破壊し、刑務所に籠城してしまった。沈静化するのに5日間かかっている。
当時の沖縄刑務所は、200人の定員に千人が放り込まれていた。だから受刑者が怒るのも無理はない。しかし、なぜ千人も詰め込まれていたのか。受刑者と瀬長亀次郎(当時人民党委員長)のやりとりが残っているので紹介する。「米軍占領下の沖縄刑務所事件」月刊沖縄社1983年発行より抜粋、
瀬長 きみは何年か
二郎 一年だ
瀬長 なにをやったのか
二郎 米軍財産の不法所持だ
瀬長 なにをとったのか
二郎 干しブドウに泡盛を注いでつくった酒三合びん一本を米兵にやって、スコップ一本と交換して、そのスコップで畑をたがやしていたら、MP(憲兵)につかまった
瀬長 それはひどい。それにしても、スコップ一本で懲役一年か
三郎 先生はどんな罪ですか
瀬長 犯人隠匿ほう助罪だ
三郎 なんですか、それはー
瀬長 アメリカは、日本復帰運動をきらっている。それで、復帰運動をやっている人民党員に、四十八時間以内に沖縄を立ち去れ、と命令を出して、その人をかばったから罪だというわけだ
三郎 そんなことで、二年もの罪とはひどい
罪とも言えないたわいもない件で住民をしょっぴき、一方で、政治のリーダーには難癖をつけて刑務所に放り込む。正に植民地だ。
余談だが、その暴動に瀬長亀次郎が直接かかわったわけではない。たまたま時を同じくしてそこに居合わせていたのだ。本を読むと、刑務所側も受刑者側も、カメさんに(瀬長亀次郎ニックネーム)仲介役を頼んでいる。
所長と受刑者たちのやりとりだ。
(そうだ瀬長亀次郎がいた。職員の手ではもうどうにもならんから、瀬長に説得させてみよう。・・・受刑者たちが尊敬している瀬長亀次郎だ。わしの言うは聞かなくても亀次郎の言うことは聞くだろう)
(そうだ、亀さんにまかせろ。亀さん頼むぞ。しっかりやってくれ)
彼がいかに大衆に信頼され、そして支持されていたのかがよく分かる。米軍はそれをこそ警戒していたわけだ。
この本の著者は、瑞慶覧長和(ずけらん ちょうわ)さん。刑務所の看守だった方で、刑務所側からのジレンマも伝わってくる。表紙には、“長嶺健次君、瀬長亀次郎 一九八四年元旦”とカメさん直筆のサインも記されている。
私の父親、長方が言うにはこの本は、長嶺健次さんが持参して家に置いて行ったとのこと。
沖縄の置かれている状況は、いかほど変わっただろうか。
堪忍袋の緒は切れまくっている。
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【4-2】《研究員コラム》
緒方修(東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター長)
「青い眼が見た大琉球 no.3」
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1816年、バジル・ホールが来琉し「朝鮮・琉球航海記」(以後、航海記と略)を著した。イギリスに帰国後、2年間の休暇を主にヨーロッパで過ごした。1820年より南アメリカに勤務。「チリ、ペルー、メキシコ沿岸における航海日記の抜粋1820,21,22」を発表。これはダーウィンがビーグル号で航海した時に参考にしたらしい。チリのコキンボ付近の「ホールがはじめて注意した」階段状の台地を調査した。(航海記・解説より)
1825年に結婚し、一男二女に恵まれた。長女がウィリアム・チャールズ・チェンバレンと結婚し、その息子が日本・琉球文化研究で有名なバジル・ホール・チェンバレンである。つまりチェンバレンにとってバジル・ホールは外祖父にあたる。
ホールは1844年に精神に異常をきたし、44年に死去。55歳であった。
出世作となった航海記は、偶然の数カ月の余裕から生まれた。アマースト使節団を中国へ送り届けるためにアルセスト号とともにライラ号に乗船した、ところが中国側は自らの責任で国外退去まで面倒を見る習慣であり、北京から大運河で杭州へ、さらに江西省経由で広東に抜ける経路が定められていた。そこで上記の2隻の軍艦は余裕が出来、朝鮮・琉球をめざしたのである。それ以前にアルセスト号は広東で砲撃事件をひきおこしている。
「商船員であるかを問わず、海の男なら誰であろうと中国人を友好的な人種とはみなしていない。彼らの領土に入るやいなや、つねに戦時下のような不信にみちた扱いを受けてきたからである。」
そしてついに広東省の要塞「虎門塞」で事件が起きる。
「アルセスト号は、相手がすべての大砲を撃ち込んでくる寸前に、機先を制して沈着に狙いすました片舷一斉射撃を加えた。彼らの上に32ポンド砲を雨のように降らせ、同時にわれわれは耳を聾せんばかりの雄たけびを三度あげたのである。」(航海記・付録二 ジョン・マクロード アルセスト号航海記抄)
アマースト使節団の態度を見ると、中国では砲撃、琉球では「友好的」と、違いが際立つ。
この背景にあるのは、「アマースト使節は、中国の嘉慶帝の宮廷において、臣下が皇帝に対して行う正式の儀礼である三跪叩頭(さんきゅうこうとう)の礼を要求され、これを拒絶したため、皇帝の謁見さえ許されずに、北京に入ったその日のうちに退去を命ぜられ、外交交渉の糸口さえ得られぬまま、帰国せねばならなくなった。」(航海記・解説より)
これ以降、中国のイギリスに対する態度は手のひらを返すように変わった。礼を失する者は人間ではない。野蛮人は直ちに出て行け、と冷たい態度を取り続けたのだ。
アマースト使節団の一人が日記を残していた。バジル・ホールの航海記にも名前が出てくる
クリフォードだ。
クリフォード訪琉日記
バジル・ホールが艦長のライラ号には、親友のハーバート・ジョン・クリフォードが乗船していた。英国海軍尉官の彼は日記を残していた。浜川仁・沖縄キリスト教学院教授がイギリス・ポーツマスの国立英国博物館のライブラリーで見つけた。バジル・ホールの航海記を補完するものだ。(不二出版より2015年10月31日発行)
200年前の日記は,出版に至ってはいないようだが、英国海軍は航海の際に参考にしていた。先達の記録を継承する伝統のようだ。クリフォードは公務から自由、その代わり給料は半額という条件だった。英国海軍のリストラ政策のあおりを食らったのだ。
「ナポレオン戦争直後から始まった軍縮は、4000人いた尉官のうち、仕事にありつけるのは8人に一人だけというありさま」だった。
ホールの航海記に比べて自由な筆致が感じられるのは、公務から外れて(外されて?)いたことにもよるだろう。
クリフォードの功績としては「琉球語彙」の収集である。前回紹介した「朝鮮・琉球航海記」には付録としてクリフォードによる琉球語彙が付いていたのだが、翻訳にあたり水路誌、科学上の覚え書きと共に省略されている。
当時のイギリス海軍の派遣は学術的な使命を負っているのが普通であった。初めて行く土地だから陸海の地理、文化、植物、動物などの調査は当然だ。学術的調査、といっても同時に大英帝国の政策の影響は免れない。
同時期(1822年)にシンガポール実験植物園が開園。イギリス本土の王立キュー植物園(シンガポール、イギリス両方の植物園とも世界遺産)と連携しながらゴムの樹を栽培し、ゴム・プランテーションの大発展の文字通り種を撒いた。マラリアが猛威を振るっていた土地でのプランテーション経営は、特効薬キニーネなくしてはあり得なかった。(ただしキニーネはイギリス人の植民地経営者にのみ処方された)後に訪れる自動車の時代に、ゴムの樹の大量栽培は、タイヤを生産し、自動車産業を支える大プロジェクトの基盤となった。
ゴムやキニーネに限らず食用、薬用、趣味嗜好用の有用な植物が未知の土地にあるかもしれない。当時は化学合成で薬や肥料を生み出す時代ではない。未知の植物を探す「プラント・ハンター」が航海に随伴していたことは間違いない。
「女が見えたぞ!」
さて琉球の人々は、そんな生き馬の目を抜くような「近代」とは無縁。
琉球王府は必死で異国船と人々との接触をさせないようにした。特に女性は一切目にふれないように隠した。ところがクリフォードはちゃんと「高性能の望遠鏡の助けをかりて自分を慰めている。」「ここらあたりの国々の女性たちときたら、どこでも見知らぬ人間が近づくと飛ぶように逃げて行ってしまう。そこで、現在ぼくらが停泊している岸から近距離のところで、簡単に彼女たちの一挙一動を観察しているというわけだ。」
クリフォードの女性観察の例をあげよう。那覇港湾へ上陸した時のこと。
「反対側では、ぼくらを眺めようと集まった女たちがずらりと並んでいた。」
大急ぎで駆け寄る動きから、中国のように纏足(てんそく)をしていないことに気付く。
「女たちの足首はよく整っていて、おなじく健康な美脚を見せていて、衣服はぼくらの国で今年の始めに流行していた服と同じくらい短いものだった。女たちの大半は腕に子どもを抱えており、男たちよりずっと色白で、肉づきがよく、丸みのある顔で、頭の右側に束ねた髪は、後ろの方に男たちよりも豊かにあった。」
ところでこの航海にはたった一人女性が乗っていた。アルセスト号のボースン(掌帆長)の妻である。彼女は当然ながら琉球人たちの好奇心の的となった。しかしクリフォードは女性の美醜にいささか厳しい。
「ぼくが残念に思うのは、もっと出来のよい標本をお見せできないことである。この標本についていえば、その立ち居振る舞いは、彼女の身分からすれば並外れて好ましく、彼女の物腰も謙虚で適切ではあるのだが、ぼくの危惧しているのは、琉球の人たちに、イングランドの女たちの皆がこの類ではないことを、どうしても分かってもらえないかもしれないということだ。」
つまりあんなブスがイングランドのレディと思われてはたまらない。イギリスにはもっと美人がいるぜ、と言いたいのだ。
その後、彼女は選択桶を使っている姿を見られ「現地の人びとをびっくり仰天させた。」
行く先々で役人たちが住民たちを追い払っていた。運天港に上陸した時のこと。琉球の農民が快適な暮らしを営んでいることを実感する。馬小屋には小型の馬が2頭、同じ屋根の下に豚が数匹。家禽の飼育も十分。
「小さな建物があって、その中には穀物のための木製脱穀機がみられ、二本の円筒状の丸太(一方は中空で、もう一方はそうでない)には上下に溝が掘ってあり、互いを嵌めこんである。(注・米や粟から籾を取り除く機械)穀物を上に乗せて挽くための石具もあった。近くにはカゴに綿が入っているのを見かけた。
これらすべてが、人びとが仕事をしていたところを大慌てで余所へやられてしまったという雰囲気を醸しだしていた。間違いなく女たちでどこかへ閉じこもっているのである。例外といえば二、三人の老婆だけで、これほど醜い女たちには、ぼくはお目にかかったことがなかった。この女たちが近づくと見るやいなや、男たちが慌ててどこかへ追いやってしまった。」
せっかく近くで見ることが出来た女は、超ブス。クリフォードの失望が伝わってくる。
この時期のイギリスでは、ようやく女性の権利が唱えられつつあった。
フランス革命と産業革命を端緒に、18世紀末頃から芽生えはじめた女性解放思想が、男性の従属物としてあらゆる権利を制限されていた英国の女性たちをいかに突き動かし、参政権獲得という具体的目標に向けて形をとりはじめたのか。本書は、男女平等の人権を求めるメアリー・ウルストンクラフト『女性の権利の擁護』刊行の1792年を起点におき、さまざまな史実や人物群像を描き出しつつ、英国で女性の普通選挙権が実現した1928年に至る道程を活写した古典的名著(原題The Cause)待望の初訳である。
これは「イギリス女性運動史」(レイストレ一チー著 みすず書房)の案内だ。産業革命は女性を家庭から工場へ引き出し、労働力として育てつつあった。当然、女性の権利の擁護も伴う。イギリスの初期社会主義者ロバート・オーウェンが1800年にスコットランドのニューラナークに紡績工場(世界遺産)を作り成功した。労働者の環境改善に努力したが、必ずしも成功した訳ではない。マルクスからは空想的社会主義と揶揄された。
ともあれクリフォードが育ったイギリスは、女性の権利が主張され始めた時期だった。
「真栄平から学んだことだが、この国の人びとに妻はひとりだけであり、側室が認められているのは、国王だけである」
「人びとが中国の慣習について敬意を欠く物言いをするのを耳にして、ぼくらはしばらく驚かされた。特に妻や側室が複数いるという習慣については、大変批判的である。」
こうした記述からはイギリスで勃興し始めたフェミニズムの影響と、琉球の人びとの女性蔑視の少なさに好意を抱いている様子がうかがえる。
クリフォードは帰国後、ほとんど独力で英国海軍琉球伝道会を設立した。そしてイギリス国教会の宣教師を琉球に派遣する。派遣したのはユダヤ系の変人・ベッテルハイムであった。彼の功績とひきおこしたトラブルについては別に記すことにする。
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