■「高村光太郎記念館」・「高村山荘」入場券
■「高村光太郎記念館」・「高村山荘」リーフレット
■「高村光太郎記念館」・「高村山荘」入口
■「高村光太郎記念館」・「高村光太郎・智恵子」
■「高村山荘」
■「長者ヶ原のツバメ」
今日は、6月1日に行った日帰りレク、「宮沢賢治記念館」・「宮沢賢治童話村 賢治の学校」、「賢治先生の家」(岩手県立花巻農業高等学校敷地内)を見学した後、最後に立ち寄った「高村光太郎記念館」・「高村山荘」をご紹介したいと思います。
「高村山荘」は、高村光太郎が空襲により焦土と化した東京から太田村山口(花巻市)に疎開し生活したところでした。
現在、「高村山荘」は、地元の人たちが保存のために套屋を建てていますが、高村光太郎が生活していた当時の様子がそのまま拝観できるようになっていました。
決して住みやすい環境とはいかない小さな山小屋で生活した光太郎の面影を垣間見ることができました。
農耕自炊の生活を送りながらも多くの作品が生まれたことは、「高村山荘」の四季折々の環境が少なからず影響しているのではと思いました。
高村光太郎の年譜を見てみると、19歳で東京美術学校に入学、20歳でロダンの彫刻を見る、23歳で渡米、24歳でロンドンに渡り、25歳でパリに移り、26歳でイタリアを経由して帰国、31歳で『道程』を刊行、知恵子と結婚、51歳で千恵子の精神分裂症悪化、55歳で千恵子没す、62歳で花巻に移り「高村山荘」で農耕自炊生活、73歳で生涯を閉じたとありました。
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
「高村光太郎記念館」は、今年の5月にリニューアルオープンしていました。
記念館には、本物の「手」のブロンズが飾られ、レプリカも置かれ、そっと「手」の感触を体験できるようになっていました。
花巻への日帰りレクは、結構、充実した時間で、いろいろなことを勉強しながら楽しんだ一日でした。
明日の英気を養った一日でもありました。
■「高村光太郎記念館」・「高村山荘」リーフレット
■「高村光太郎記念館」・「高村山荘」入口
■「高村光太郎記念館」・「高村光太郎・智恵子」
■「高村山荘」
■「長者ヶ原のツバメ」
今日は、6月1日に行った日帰りレク、「宮沢賢治記念館」・「宮沢賢治童話村 賢治の学校」、「賢治先生の家」(岩手県立花巻農業高等学校敷地内)を見学した後、最後に立ち寄った「高村光太郎記念館」・「高村山荘」をご紹介したいと思います。
「高村山荘」は、高村光太郎が空襲により焦土と化した東京から太田村山口(花巻市)に疎開し生活したところでした。
現在、「高村山荘」は、地元の人たちが保存のために套屋を建てていますが、高村光太郎が生活していた当時の様子がそのまま拝観できるようになっていました。
決して住みやすい環境とはいかない小さな山小屋で生活した光太郎の面影を垣間見ることができました。
農耕自炊の生活を送りながらも多くの作品が生まれたことは、「高村山荘」の四季折々の環境が少なからず影響しているのではと思いました。
高村光太郎の年譜を見てみると、19歳で東京美術学校に入学、20歳でロダンの彫刻を見る、23歳で渡米、24歳でロンドンに渡り、25歳でパリに移り、26歳でイタリアを経由して帰国、31歳で『道程』を刊行、知恵子と結婚、51歳で千恵子の精神分裂症悪化、55歳で千恵子没す、62歳で花巻に移り「高村山荘」で農耕自炊生活、73歳で生涯を閉じたとありました。
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
「高村光太郎記念館」は、今年の5月にリニューアルオープンしていました。
記念館には、本物の「手」のブロンズが飾られ、レプリカも置かれ、そっと「手」の感触を体験できるようになっていました。
花巻への日帰りレクは、結構、充実した時間で、いろいろなことを勉強しながら楽しんだ一日でした。
明日の英気を養った一日でもありました。