■校舎入口・多目的ホール
■校舎前の中浜小学校の石碑・シンボルの時計
■多目的ホール
■1階の被災状況
■図工室
■給食室他
■1年生・2年生の教室他
■中庭
■校舎内の被災状況
■中浜小学校から近い住民が住んでいた中浜地区
8月19日、宮城県山元町のヒマワリ畑の直ぐ近くにあった宮城県山元町震災遺構中浜小学校を見学してきました。
【自由に見学】
ガイドのご案内で児童たちが避難した屋上の屋根裏倉庫を見学した後、自由に校舎内を見学することができました。
【1階の見学】
震災災遺構中浜小学校の屋上から2階を見学した後、1階まで降りて見学してきました。
今日の私のblogは、1階の被災状況を書き込みたいと思います。
校舎前にあった学校のシンボルの一つ時計台、頑丈なコンクリート製の柱が根元から押し倒された痕跡が目に止まりました。
小学校の石碑も無残に折れ、津波の力の凄さを見る思いがしました。
小学校の玄関入口から入ると児童の下駄箱が目に入りました。
正面には、多目的ホールがあり、児童たちが集まり、集会や給食などに使用されたホールで吹き抜けになっていて開放的な空間でした。
ここには、多方向から襲来した津波が運んできた瓦礫の堆積がありましたが、窓をみると破壊された形跡はなく、津波が通り過ぎていった様子が伺えました。
多目的ホールの前にある6年生が制作した造作物は、無残にも外枠だけが残っていました。
多目的ホールの隣にある図工室は、天井が剥がれるなど津波の高さと凄まじさ見ることができました。
給食室や1年生から2年生の教室は、無残にも壁が無く、津波の凄まじさを思い知らされる状況でした。
校舎内の中庭に目をやると、津波が、凄まじい勢いで流れていったのではと思うような光景が広がっていました。
震災の翌日には、瓦礫の堆積していない校庭のおかげで、救助のヘリコプターが着地でき、時間をかけずに全員内陸部へ避難できたようでした。
【震災の教訓】
今回、見学して思ったことは、中浜小学校が、海から400mと近いところにあり、津波が到来するまでの約10分、垂直避難という屋上への避難を余儀なくされれたこと、当時、氷点下の気温の中、屋根裏倉庫という密閉された倉庫で一夜を過ごしたこと、体育館にあったブルーシートで暖を取り合ってしのいだこと、2mのかさ上げされた校舎の設計が児童たちを救ったこと、ひき波で津波の高さが減少されたことで屋上まで津波が来なかったこと、それぞれに良く考えてみると、災害への備えがいかにあるべきか、被害を最低限に回避する手立ては何があるのか、それも瞬時にどう判断すべきなのか、日頃の備えは十分なのか、改めて災害に対する心構えを整理するきっかけになりました。
【震災から10年】
大震災から10年、時が流れました。
思えば、家内の故郷気仙沼は、甚大な被害を受けました。
家内の実家の家屋も流されるなど大きな被害を受けました。家の前に広がる田んぼも土盛りをされて昔の面影は全く無くなりました。既にかさ上げ工事が終わり居住できない土地になりました。そんなこともあり、震災に対する思い入れは、大きなものがあります。
【震災を風化させないためにも】
大津波の痕跡は凄まじいものがありますが、震災のことは、忘れ去られているような気がしています。
震災遺構中浜小学校を見学し、震災の教訓を風化させることなく、災害に対する備え、意識の大切さを改めて感じた貴重な時間になりました。