青い空が大好きな゛bluesky531゛の徒然日記

日常の出来事を日記風に徒然なるままに書いています。

平和の尊さに触れて~仙台市戦災復興記念館の資料展示室を見学~

2015-06-13 06:00:07 | 報道・ニュース
■仙台市主催「戦災復興展」(7月3日~12日)チラシ
 

■「仙台市戦災復興記念館」パンフレット


■「仙台市戦災復興記念館」・「展示資料室」
 

■「奈津子の像」
 

6月10日、仙台市戦災復興記念館に行ってきました。

仙台市戦災復興記念館からダイレクトメールが届き、7月3日~12日の10日間、「戦災復興展」が開催され、その中のイベントスケジュールに「平和祈念コンサート」が整理券を発行して開催されるというご案内があり、受取が記念館の窓口であったことから行ってきました。

「戦災復興展」は、仙台空襲のあった7月10日前後に、大惨事となった仙台のまちの復興に力をそそいだ方々への感謝の念を新たにする場として、仙台市主催のもと、毎年開催されているとのことでした。
仙台市に住んで十数年になりますが、仙台が空襲にあったということは聞いていましたが、毎年、「戦災復興展」を開催しているとは知りませんでした。

平和祈念コンサートの整理券は、ホールの収容人数で先着順と言っていたことから時間も経過していたので心配でしたが、きちんと整理券を2枚いただくことができました。

仙台市戦災復興記念館には、以前、何度とか会館のホールでイベントがあり訪れていたことがありましたが、地下1階にある資料展示室には行くことはありませんでした。
今回、時間があったことから展示室を見学してきました。

仙台市戦災復興記念館は、「昭和56年(1981年)に開館し、空襲を受けた仙台市の被害、その後の復興など資料、記録の展示をし、これまでの歩みを記念し、空襲を受けた街の写真や遺品等とともに、戦後の復興の歩みを展示する。」とありました。

昭和20年7月10日午前0時過ぎ、アメリカ軍B29型爆撃機の空襲により、千人を超す尊い命が奪われ、2時間余りの間に街の中心街が焼け野原になってしまった様子を、写真や遺品、体験談などを展示することにより、戦争、空襲の恐ろしさを、悲惨な目にあった仙台市のその後の様子を伺える内容になっていました。

中でも衝撃的なのは、平成24年10月、記念館に理学博士米崎茂氏により寄贈された空襲直後の東北大学金属材料研修所の写真と「仙台大空襲及びその前後の実情。仙台対空襲  米崎氏手記」でした。

米崎氏は、当時、東北大学金属材料研究室で本多光太郎先生の下で、戦時研究員となり、研究生活を送っていたそうですが、その後、赤紙(召集令状)が来て兵役に服し、万歳万歳と見送られたものの、日本は鉄砲の弾が乏しくなり、米崎氏が戦時研究員に登録さていたことで隊長から「殺人光線を早く作れ」と命じられ、仙台に帰り研究所に戻った後、仙台大空襲を経験したとありました。
A4版7ページにわたる米崎氏の手記は、戦時の惨事を体験した人でなければ書くことのできない生々しい内容が綴られ、貴重な写真を見ながら展示室で一気に読んでしまいました。

戦時中に何故写真を撮ることができたのかと思いましたが、大空襲勃発の時は、土中に埋めたカメラを掘り起こして研究所にかけつけて撮ったもので、フイルムは米崎氏が買いだめしていた貴重なものとありました。

流石、研究員と頷ける物凄い内容が記されていました。
米崎氏は、得意の電気の知識を生かして、短波受信機を自作し、深夜ひそかにレシーバーを耳にかけ、アメリカからのVOAを聞いていたそうです。
太平洋での日本軍の敗戦の実情や、敵が東京の街の中でも、燃えやすい地区の地図を作り、焼夷弾攻撃の予定なども知っていたそうで、仙台空襲の時も、遂に来るべき時が来たと覚悟を決めたとありました。

米崎氏は、猛烈に研究し、数々の国内外特許を取り、莫大な国益を得て、戦後の日本の復興に大いに貢献したとありましたが、発明者への報酬は僅かで、日本国内の特許権者は、発明者に対して至って無関心、優秀な科学者は日本国から脱出、日本の政治家や官僚は、科学に無知であり実に情けないと記していました。

最近の新聞記事で見た内容ですが、6月8日、文科省は全国の国立大学に学部や大学院を見直して、廃止や、より需要の多い分野への転換を指示し、理工系に力を入れ、技術革新を生み出し、成長につなげていく方針を通達したとありました。
米崎氏の憂うることが、大学の改革を通して一つ解決されていくのかと思いつつ、決して文系をおろそかにして良いと訳でもなかろうし、そういう改革でもなかろうと思いながら記事を読んでいました。

戦後70年を迎えた日本の歩みを考えると、日本の復興は目覚ましいものがあったと思い、併せて、戦争の恐ろしさを感じながらいろいろと考えを巡らせた時間でした。

今まで培ってきた平和を希求する日本の姿が、敗戦国日本を作り上げてきたと思うと、戦後70年の歩みはこれからも大事にしていかなければと思った見学でもありました。