■「賢治先生の家」(岩手県立花巻農業高等学校敷地内)
■「岩手県立花巻農業高等学校」
■昼食会場「金婚亭」・「天ざる」
今日は、6月1日に行った日帰りレク、「宮沢賢治記念館」・「宮沢賢治童話村 賢治の学校」、「賢治先生の家」(岩手県立花巻農業高等学校敷地内)、「高村光太郎記念館」の旅のうち「賢治先生の家」をご紹介したいと思います。
「賢治先生の家」は、岩手県立花巻農業高等学校敷地内にありました。
「宮沢賢治略年譜」を見てみると、27歳から30歳まで岩手県立花巻農業高等学校の教諭として勤めていた経歴がありました。
賢治が31歳の時に羅須地人協会で活動していたという「賢治先生の家」は、農学校を退職した後、農耕生活を始め、付近の農民に農業や様々な芸術を教え、賢治はこの建物で、昭和3年に病気になるまで自炊生活をしたところでした。
かつて賢治詩碑が桜町というところにあったそうですが、昭和44年に現在の花巻農業高校の敷地内に移築されたそうで、「賢治先生の家」の玄関脇には、あの有名な「下ノ畑ニ居リマス 賢治」の板が再現されていました。
管理は花巻農業高校の生徒が行っているそうで、鍵を借りて内部を見学できるとありましたが、玄関は鍵がかかっておらず見学できました。
後で知ったのですが、10名以上の団体の見学は、「賢治の家」が学校敷地内にあるため事前に申し込みが必要とありました。
今回、見学を企画した幹事が学校へ連絡していたかは定かではありませんが、心ゆくまで見学をすることができました。
花巻農業高校の校門の前に、「農で学び 農で育ち 農で生きる」、「命ある者に希望あり 絶望は愚か者の結論である」、「マコトノ クサノ タネマケリ」という標識がありました。
農業高校らしい格言と思いながら読んできました。
卒業記念として生徒が作った「いこいの庭」、「躍動の庭」、「和洋折衷庭園」などの卒園庭園があり、それぞれにコンセプトを持ち、それらに従った成程と感心するほどの庭園で心を癒してくれました。
農業高校の敷地に流れる川に「銀河の橋」というプレートが掲げられて橋がありました。
宮沢賢治が教鞭をとった農業高校らしい雰囲気にじっくり堪能してきました。
花巻農業高校の旧校門、宮沢賢治の銅像、宮沢賢治の家を見学してきましたが、全てに秀でた賢治の偉大さに触れた一日でした。
明日のブログは、花巻市太田にある「高村光太郎記念館」、「高村山荘」をご紹介したいと思います。
■「岩手県立花巻農業高等学校」
■昼食会場「金婚亭」・「天ざる」
今日は、6月1日に行った日帰りレク、「宮沢賢治記念館」・「宮沢賢治童話村 賢治の学校」、「賢治先生の家」(岩手県立花巻農業高等学校敷地内)、「高村光太郎記念館」の旅のうち「賢治先生の家」をご紹介したいと思います。
「賢治先生の家」は、岩手県立花巻農業高等学校敷地内にありました。
「宮沢賢治略年譜」を見てみると、27歳から30歳まで岩手県立花巻農業高等学校の教諭として勤めていた経歴がありました。
賢治が31歳の時に羅須地人協会で活動していたという「賢治先生の家」は、農学校を退職した後、農耕生活を始め、付近の農民に農業や様々な芸術を教え、賢治はこの建物で、昭和3年に病気になるまで自炊生活をしたところでした。
かつて賢治詩碑が桜町というところにあったそうですが、昭和44年に現在の花巻農業高校の敷地内に移築されたそうで、「賢治先生の家」の玄関脇には、あの有名な「下ノ畑ニ居リマス 賢治」の板が再現されていました。
管理は花巻農業高校の生徒が行っているそうで、鍵を借りて内部を見学できるとありましたが、玄関は鍵がかかっておらず見学できました。
後で知ったのですが、10名以上の団体の見学は、「賢治の家」が学校敷地内にあるため事前に申し込みが必要とありました。
今回、見学を企画した幹事が学校へ連絡していたかは定かではありませんが、心ゆくまで見学をすることができました。
花巻農業高校の校門の前に、「農で学び 農で育ち 農で生きる」、「命ある者に希望あり 絶望は愚か者の結論である」、「マコトノ クサノ タネマケリ」という標識がありました。
農業高校らしい格言と思いながら読んできました。
卒業記念として生徒が作った「いこいの庭」、「躍動の庭」、「和洋折衷庭園」などの卒園庭園があり、それぞれにコンセプトを持ち、それらに従った成程と感心するほどの庭園で心を癒してくれました。
農業高校の敷地に流れる川に「銀河の橋」というプレートが掲げられて橋がありました。
宮沢賢治が教鞭をとった農業高校らしい雰囲気にじっくり堪能してきました。
花巻農業高校の旧校門、宮沢賢治の銅像、宮沢賢治の家を見学してきましたが、全てに秀でた賢治の偉大さに触れた一日でした。
明日のブログは、花巻市太田にある「高村光太郎記念館」、「高村山荘」をご紹介したいと思います。