先日の「昭和の選択」(BS3)で、かのピカソの「ゲルニカ」にも匹敵する<書>を書いたと言われる<井上有一氏>のことが取り
上げられた。
私は井上有一氏のことは、この番組を見て初めて知った。
井上有一氏は、東京の下町にある「横川国民学校」の教師だった。
しかし第二次世界大戦の戦況が厳しくなったことで、横川国民学校の子どもたちは、井上先生の引率のもと、学童疎開すること
になる。
親元を離れた子どもたちは、先生と共に健気に疎開生活を送る。
しかし、1945年3月になって、6年生8人は、東京に帰って卒業式をしなければならなくなる。
前もって一旦帰京した井上氏の目に映った東京の姿は、無惨なものだった。
「これだったら、とても東京に子どもを帰すことはできないのでは?」
井上氏は悩まれるが、卒業式を東京で執り行うことは、上からの命令で致し方ない。
やむなく井上氏は6年生を連れて東京に帰られる。
そして、あの3月10日がやってくる。
横川国民学校は、もっとも激しい爆撃を受けた下町にあった。
井上氏は横川国民学校で、沢山の避難民と共に爆撃を受け、一旦は生死の境をさまよわれるが、何とか九死に一生を得ら
れる。
しかし、連れて帰った8人の子どもは、皆亡くなってしまった。
井上氏の悲しみ・悩みは深かった。
当時、井上氏が空襲の惨状を描かれた、絵と文。
その後彼は、戦後横川小学校に復職されるが、復職されて程なく、「とみをか」(疎開地の地名)という、ガリ版刷りの冊子を
作られる。
そして冒頭で、亡くなった子どもたちの名まえを上げ、追悼の気持ちを捧げておられる。
その後井上氏は、教職を続けながら、<書>の道の探究をされる。
彼の書の一例。
(彼はこの当時「瓦礫」という言葉を書こうとしたが、どうしても書けなかったと述懐されてもいる。)
井上氏の書は世界的に高く評価され、1957年に行われた「サンパウロ・ビエンナーレ」に、日本の代表としてその書を出展さ
れている。
定年まで教職を務められた井上氏は、退職後、改めて東京大空襲の悲劇に向き合われ、次のような作品を創り出された。
私はこの書(というか作品)には、東京大空襲の悲惨を身を持って体験され、愛しい教え子を奪われた、井上氏の<無念>と
<悲しみ>と<怒り>が、正に「絞り出すように」表されていると思う。
凄まじささえ感じさせるこの作品が、ピカソの「ゲルニカ」に肩を並べる素晴らしい作品として世界的に認められているのもうな
ずかれる。
上の井上氏の書も示しているように、戦争がいかに無惨なものであるかは明らかであるにも拘わらず、今の日本では、過去
の過ちを忘れ、軍備を増強していこうという、危険な動きが顕著だ。
また教育の分野では、今世間をにぎわしている森友学園に見られるように、教育勅語を幼稚園児に暗唱させ、近隣の国を
差別・侮辱する言葉や、現政権を応援する言葉を子どもたちに叫ばせるという、とんでもないことが、まかり通っている。
そして更に問題なのは、その教育とも言えない教育を、素晴らしいと称賛する現政権の方々がいることだ。
私はこのような事態に強い怒りと危惧を感じる。
その折も折、友だちに「九条の会・おおさか」の講演会が開かれることを教えてもらった。
私は何か救いを求めるような気持ちで、その講演会に参加した。
「九条の会・おおさか」では、新しい呼びかけ人が選出され、今の危険な状況に精力的に対抗しようとされているようだった。
若い方が積極的に参加されてることや、落語家・桂文福さんが呼びかけ人に加わられていることも、明るい情報のような気
がする。
難しいことはよく分からないけれど、この講演会に参加して、多少は元気になった気がした。