戦前作られた「大日本帝国憲法」。「天皇主権」「統帥権の独立」「兵役の義務」「臣民の権利は法律の範囲内に於いて」「臣民の権利は安寧秩序を妨げない限り」と、民主主義には不完全で「外見的立憲主義」と言われるこの憲法。筆者も「大日本帝国憲法の制度的限界」と題して、太平洋戦争に至るひとつの理由をこの憲法に求めた。ただ、すべてこの憲法が諸悪の根源なのか。私は疑問に思う。「大日本帝国憲法」を論ずるなら、その条文を逐一見る必要がある。そこで、本稿では実際に憲法の条文を用いて論じてみたい。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
これをもって、大日本帝国憲法は非民主的な天皇大権を認めた憲法だと思われがちだが、憲法はその条文をよく見てみると、意外に現在の「日本国憲法」に近いことがわかる。
第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
この条項をみると、ほぼ美濃部達吉が主張した「天皇機関説」という解釈が正しいと思われる。天皇であっても、「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」を統治権を制限されていたのである。
第8条 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
この条項をみると、天皇は法律を超える勅令を持っている。まさに天皇大権とも思える(それであっても帝国議会の閉会中のみしか勅令は出せない)。しかし、次の条項を見てみよう。
第8条2 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ
とある。すなわち、天皇の勅令とはいえども、次に招集された帝国議会で承諾されなければ天皇の勅令は「其ノ効力ヲ失フ」とある。これは現在の日本国憲法第54条の「参議院の緊急集会」に似ている。日本国憲法でも、衆議院の解散中で緊急の必要がある時は、参議院の緊急集会を求めることができる。ただし、緊急集会で決まったことは次の衆議院で同意がない場合には「その効力を失ふ」とある。
第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
とあり、帝国議会は立法権で「天皇に同意の意思表示をする」だけの機関であるように思う。しかし、
第37条 凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス
とあり、天皇は「帝国議会ノ協賛」がなければ法律を作ることができないわけで、帝国議会の力は強いことになる。「帝国議会ノ協賛」が必要ない唯一の法律は、
第74条 皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス
とある。つまり、「皇室典範」は帝国議会の権能の枠外ということになる。ここに抜け道ができてしまいそうであるが、
第74条2 皇室典範ヲ以テ此ノ憲法ノ条規ヲ変更スルコトヲ得ス
とあり、「皇室典範」を使って大日本帝国憲法を骨抜きにしようと思っても、この条項があるので出来ないのである。
第46条 両議院ハ各々其ノ総議員3分ノ1以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開キ議決ヲ為スコトヲ得ス
第48条 両議院ノ会議ハ公開ス但シ政府ノ要求又ハ其ノ院ノ決議ニ依リ秘密会ト為スコトヲ得
第46条は日本国憲法の第56条、第48条は日本国憲法の第57条とほぼ同じである。第46条があるからこそ、初期議会(1890~1894)において政府は吏党(政府を支持する党)だけで採決することはできず、民党の主張に左右されたのである。第48条も情報公開の原則を謳ったものであり、現在に通じている。
第52条 両議院ノ議員ハ議院ニ於テ発言シタル意見及表決ニ付院外ニ於テ責ヲ負フコトナシ但シ議員自ラ其ノ言論ヲ演説刊行筆記又ハ其ノ他ノ方法ヲ以テ公布シタルトキハ一般ノ法律ニ依リ処分セラルヘシ
これは、日本国憲法第51条にもある。議院の自由な言論・表現を保障するために、議員の院外での発言を免責したものだ。もし、尾崎行雄議員の「共和演説事件」(尾崎が院外で「絶対あり得ないことではあるが、もし日本が共和国だったとすれば、大統領は三菱などの財閥の長が就任するだろう」と言って、天皇に対する不敬罪を問われ文部大臣を辞任した事件)も、院内での発言だったなら免責されることになる。同様に美濃部達吉が主張した「天皇機関説」も院内であれば免責される(もっとも明治憲法下では、演説・刊行をした時点で法律によって処分されるが…)
第53条 両議院ノ議員ハ現行犯罪又ハ内乱外患ニ関ル罪ヲ除ク外会期中其ノ院ノ許諾ナクシテ逮捕セラルヽコトナシ
日本国憲法第50条の「議員の不逮捕特権」とほぼ同じ。この条項が戦前からあったなんて初めて知った。民主的だ。
第55条 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
とあり、国務大臣は天皇の行政権の行使に対して輔弼(助言する)ことしかできないように思えるが、次の条項で
第55条2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
とあって、天皇は「国務大臣ノ副署」(副署=署名の際に添える署名のこと)がないと行政権を行使できないようになっている。
以上のように見ていくと、「大日本帝国憲法」は、立憲政治をすべて骨抜きした憲法ではないことがわかる。この憲法が1889年に作られたというのを考えると、当時としてはやはり民主主義へ一歩前進したのではないかと思う。では、「大日本帝国憲法の制度的限界」とは何か。それは、日本の民主主義の進展に対して憲法が追いついていなかったからではなかろうか。つまり、明治時代(というか1889年)であればこの憲法でもよかった。しかし、大正デモクラシーがおこり、憲政の常道など民主主義が成熟しかけた日本の政治において、この憲法は遅れていたのではなかろうか。「大日本帝国憲法」の賞味期限(と言う言葉が適切かどうか疑問だが)は日本の状況からするとおよそ30年間くらいで、1919年頃にはすでに時代遅れとなっていた。しかし、そのまま憲法が改正されなかったため、「藩閥政治用」に作られた解釈を利用して軍部が台頭した。結果、あの無謀な戦争が始まったと言えないか。
それでもやはり「大日本帝国憲法」は内閣の規定が第55条の「国務大臣」についてしか触れて折らず、先のブログでも触れたように、戦前の日本でも政治的リーダーであった「首相」の地位に触れていない。政治的リーダーである首相が「国の最高法規」に触れられていないというのは、やはり制度的欠陥であると言わざるを得ない。この点を改めない限り(もしくは「本来の主権者である天皇が主体的に統治」しない限り)、この憲法は国の政治実態と大きく乖離したものであったと言えないだろうか。
さて、憲法は国の最高法規であるが、「大日本帝国憲法」と「日本国憲法」はいずれも憲法改正についての手続きに触れている。つまり、時代に合わせた改正を前提に作られた憲法と言える。現在の日本国憲法は形式上は「大日本帝国憲法」の改正という手続きで作られた。しかし、これは太平洋戦争の敗北という大きな外圧の元に行われたものであり、純粋に時代に応じて改正されたとは言い難い(日本国憲法が押しつけ憲法か、自主制定憲法かということは論点から外れるのでここでは論じない)。
日本国憲法が作られてからすでに60年以上が経過した。インターネットの普及、人権問題の追求、経済や文化のグローバリズム化、高度情報化社会と日本国憲法が施行された1948年とはずいぶんと状況が変化した。戦後すぐの頃から比べれば憲法改正における抵抗感が国民から確実に減った。「憲法を変える」「憲法を変えない」という視点だけではなく、「日本に住む人がより良く生活するためには政治はまず何をすべきか」ということを大前提に、憲法・法律・政治組織などの在り方を論じなければならないのではないか。ただ単に憲法の条文をいじって変えてみても、人間の生活には反映されにくい。「木を見て森を見ず」「森を見て木を見ず」の両方でもだめで、「木を見つつ森も見る」ことが必要かも知れない。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
これをもって、大日本帝国憲法は非民主的な天皇大権を認めた憲法だと思われがちだが、憲法はその条文をよく見てみると、意外に現在の「日本国憲法」に近いことがわかる。
第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
この条項をみると、ほぼ美濃部達吉が主張した「天皇機関説」という解釈が正しいと思われる。天皇であっても、「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」を統治権を制限されていたのである。
第8条 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
この条項をみると、天皇は法律を超える勅令を持っている。まさに天皇大権とも思える(それであっても帝国議会の閉会中のみしか勅令は出せない)。しかし、次の条項を見てみよう。
第8条2 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ
とある。すなわち、天皇の勅令とはいえども、次に招集された帝国議会で承諾されなければ天皇の勅令は「其ノ効力ヲ失フ」とある。これは現在の日本国憲法第54条の「参議院の緊急集会」に似ている。日本国憲法でも、衆議院の解散中で緊急の必要がある時は、参議院の緊急集会を求めることができる。ただし、緊急集会で決まったことは次の衆議院で同意がない場合には「その効力を失ふ」とある。
第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
とあり、帝国議会は立法権で「天皇に同意の意思表示をする」だけの機関であるように思う。しかし、
第37条 凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス
とあり、天皇は「帝国議会ノ協賛」がなければ法律を作ることができないわけで、帝国議会の力は強いことになる。「帝国議会ノ協賛」が必要ない唯一の法律は、
第74条 皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス
とある。つまり、「皇室典範」は帝国議会の権能の枠外ということになる。ここに抜け道ができてしまいそうであるが、
第74条2 皇室典範ヲ以テ此ノ憲法ノ条規ヲ変更スルコトヲ得ス
とあり、「皇室典範」を使って大日本帝国憲法を骨抜きにしようと思っても、この条項があるので出来ないのである。
第46条 両議院ハ各々其ノ総議員3分ノ1以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開キ議決ヲ為スコトヲ得ス
第48条 両議院ノ会議ハ公開ス但シ政府ノ要求又ハ其ノ院ノ決議ニ依リ秘密会ト為スコトヲ得
第46条は日本国憲法の第56条、第48条は日本国憲法の第57条とほぼ同じである。第46条があるからこそ、初期議会(1890~1894)において政府は吏党(政府を支持する党)だけで採決することはできず、民党の主張に左右されたのである。第48条も情報公開の原則を謳ったものであり、現在に通じている。
第52条 両議院ノ議員ハ議院ニ於テ発言シタル意見及表決ニ付院外ニ於テ責ヲ負フコトナシ但シ議員自ラ其ノ言論ヲ演説刊行筆記又ハ其ノ他ノ方法ヲ以テ公布シタルトキハ一般ノ法律ニ依リ処分セラルヘシ
これは、日本国憲法第51条にもある。議院の自由な言論・表現を保障するために、議員の院外での発言を免責したものだ。もし、尾崎行雄議員の「共和演説事件」(尾崎が院外で「絶対あり得ないことではあるが、もし日本が共和国だったとすれば、大統領は三菱などの財閥の長が就任するだろう」と言って、天皇に対する不敬罪を問われ文部大臣を辞任した事件)も、院内での発言だったなら免責されることになる。同様に美濃部達吉が主張した「天皇機関説」も院内であれば免責される(もっとも明治憲法下では、演説・刊行をした時点で法律によって処分されるが…)
第53条 両議院ノ議員ハ現行犯罪又ハ内乱外患ニ関ル罪ヲ除ク外会期中其ノ院ノ許諾ナクシテ逮捕セラルヽコトナシ
日本国憲法第50条の「議員の不逮捕特権」とほぼ同じ。この条項が戦前からあったなんて初めて知った。民主的だ。
第55条 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
とあり、国務大臣は天皇の行政権の行使に対して輔弼(助言する)ことしかできないように思えるが、次の条項で
第55条2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
とあって、天皇は「国務大臣ノ副署」(副署=署名の際に添える署名のこと)がないと行政権を行使できないようになっている。
以上のように見ていくと、「大日本帝国憲法」は、立憲政治をすべて骨抜きした憲法ではないことがわかる。この憲法が1889年に作られたというのを考えると、当時としてはやはり民主主義へ一歩前進したのではないかと思う。では、「大日本帝国憲法の制度的限界」とは何か。それは、日本の民主主義の進展に対して憲法が追いついていなかったからではなかろうか。つまり、明治時代(というか1889年)であればこの憲法でもよかった。しかし、大正デモクラシーがおこり、憲政の常道など民主主義が成熟しかけた日本の政治において、この憲法は遅れていたのではなかろうか。「大日本帝国憲法」の賞味期限(と言う言葉が適切かどうか疑問だが)は日本の状況からするとおよそ30年間くらいで、1919年頃にはすでに時代遅れとなっていた。しかし、そのまま憲法が改正されなかったため、「藩閥政治用」に作られた解釈を利用して軍部が台頭した。結果、あの無謀な戦争が始まったと言えないか。
それでもやはり「大日本帝国憲法」は内閣の規定が第55条の「国務大臣」についてしか触れて折らず、先のブログでも触れたように、戦前の日本でも政治的リーダーであった「首相」の地位に触れていない。政治的リーダーである首相が「国の最高法規」に触れられていないというのは、やはり制度的欠陥であると言わざるを得ない。この点を改めない限り(もしくは「本来の主権者である天皇が主体的に統治」しない限り)、この憲法は国の政治実態と大きく乖離したものであったと言えないだろうか。
さて、憲法は国の最高法規であるが、「大日本帝国憲法」と「日本国憲法」はいずれも憲法改正についての手続きに触れている。つまり、時代に合わせた改正を前提に作られた憲法と言える。現在の日本国憲法は形式上は「大日本帝国憲法」の改正という手続きで作られた。しかし、これは太平洋戦争の敗北という大きな外圧の元に行われたものであり、純粋に時代に応じて改正されたとは言い難い(日本国憲法が押しつけ憲法か、自主制定憲法かということは論点から外れるのでここでは論じない)。
日本国憲法が作られてからすでに60年以上が経過した。インターネットの普及、人権問題の追求、経済や文化のグローバリズム化、高度情報化社会と日本国憲法が施行された1948年とはずいぶんと状況が変化した。戦後すぐの頃から比べれば憲法改正における抵抗感が国民から確実に減った。「憲法を変える」「憲法を変えない」という視点だけではなく、「日本に住む人がより良く生活するためには政治はまず何をすべきか」ということを大前提に、憲法・法律・政治組織などの在り方を論じなければならないのではないか。ただ単に憲法の条文をいじって変えてみても、人間の生活には反映されにくい。「木を見て森を見ず」「森を見て木を見ず」の両方でもだめで、「木を見つつ森も見る」ことが必要かも知れない。