畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

続『センゴク天正記』第7巻

2009-12-02 22:55:00 | 歴史
 前回『センゴク天正記』第7巻の畠山義綱の不当な扱いについてこのブログで書かせていただきました。『センゴク天正記』の読者はどんな感想を持っているのかな?それとも能登畠山氏なんて感想すらもたれないのか?と思い、ネットで検索すると、2chにたどり着きました。どんなことが書かれているのか、誹謗中傷などガックリすることが書かれてるんじゃないかな~と思ったら、かなり議論が深くてビックリ。

 まずビックリしたのが、長続連へのツッコミ。「畠山義総・義続・義綱・義慶と四代に仕えた」と作中でされていましたが、長続連の「続」の偏諱から考えると当然、義続時代から仕えているハズであり、正しくは「三代に仕えた」となる。実際、義総期には長家の資料は見えない(一説には長英連が仕えていたとも言う)。また、能登畠山氏が“戦国小説でもちょっとしか紹介されない”という指摘もよく見ているなあと。そして何よりも驚いたのが、『センゴク天正記』作者の宮下英樹氏が七尾市の出身と指摘されていたこと。初めて知りました。だからこそ、マイナーである「能登畠山氏」を取り上げたと。

 なるほど、そうであれば、上杉謙信の描き方も非常に納得できます。謙信の一般的なイメージは、どちらかと言うと「義」に厚い好感な人物として描かれることが多い。しかし『センゴク天正記』では、非常にクールというより非情なイメージで作中に他の人物が「上杉様の義は永久かつ絶対」と言霊のように評している。作中で近江に亡命した畠山義綱が謙信に救助を求めると、クールに謙信が能登制圧後の当主は「義綱弟の義春にする」と言うし、周りの人物から七尾城や畠山一族などを超えた義を追究していると、とても能登畠山家に冷酷である。
 これって能登人が持っている一般的な上杉謙信のイメージなのでは?と思うんです。私自身も同じで、足利義輝や上杉憲政を損得勘定なく助けたのに、越中や能登は平気で平定して植民地化するのか?と疑問に思っていました。しかし、謙信も単なる義に厚い聖者のようなイメージとは違って、作中のような一般的な戦国大名と同じ、と考えると納得がいく。
 上杉謙信ファンにはすごく怒られるかもしれませんが、制圧された側の能登畠山氏の立場に立てば、そう思ってしまうのが自然なのです。武将の評価というものは本当に難しいものです。