畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
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蓮沼城訪問記

2018-11-14 04:44:00 | 歴史

2018年11月に能登に旅行に行きました。そして国指定史跡の増山城も訪問しました。そのついでと言ってはなんですが、砺波郡の守護代にして越中遊佐氏の拠点の城である蓮沼城を訪問しました。訪問と言っても、ここは30秒ほどで見学を終えることができるのを知っていた。だから本当に「ついで」なのである。


 城跡の石碑が建つ場所は、写真のような宅地と水田がある僅かな一角。城跡と言えば、江戸時代的に言えば大きな平城。室町時代的に言えば大きな山の一角にある。それから考えると、この写真にある場所は全くの平坦面である。

 その理由はこの地域の開発にあるらしい。以前はこの辺りは2m位の高台で村人の畑になっていたと言うが、その後、渋江川旧河道の埋め立てのために削られたと言う。1764(宝暦14)年の書上申帳によれば、城の規模は東西26間、南北36間で、周囲には幅5間の堀があったという。昔の地籍図にも堀のようなものがあるが、いずれにしろそれほど大きくない高台に築かれた館のようなもので、おおよそ城と呼べるようなものではない。
 その規模から、守護代の本拠地にしては疑問があるが、遊佐氏の居館がここ以外に知られない以上、室町時代的な館のまま戦国時代を迎えたと思われる。とすると、加賀の冨樫氏のような別の詰めの城があったのかもしれない。


 越中守護代の遊佐氏は、河内でも能登でもそうではあるが、上流の立場にいたためか、文事を好んでいた。文明年間(1469~1486)連歌師の飯尾宗祇が越後に赴く途中、しばしば蓮沼城に立ち寄り、城主遊佐加賀守長滋の館で千句の連歌を興行した。「新撰莬玖波集」には遊佐加賀守の連歌が収められている。

「舟つなぎおく水の静けさ」
「旅人の静まる月に鐘鳴りて 長滋」

 また永正・大永年間(1504~1527)には城主遊佐新右衛門慶親が埴生護国八幡宮に108段の石段を寄進したと言われている。

 越中砺波郡の守護代である遊佐氏の行動はその実よく知られていない。晩年の加賀冨樫氏と同じく、一向一揆の勢力に取り込まれてしまったと言われるからである。となると、一向一揆に担がれた越中遊佐氏がその拠点である蓮沼城を堅固にすると一向一揆への敵対の行動と取られる可能性もあり、居館の整備が進まなかったと言えるかもしれない。

 こうして30秒で訪問できる城が誕生してしまったのである。