畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

ふーん

2009-01-19 21:00:41 | 政治・経済
 「中選挙区制復活?」「一院制検討?」「国会同意人事で衆院の優越を?」「ねじれ国会でもスムーズに政策を決める仕組みを?」って全部自分勝手な言い分じゃないですか?選挙結果は民意ならこの政治的混乱も民意なのでは?「与野党が知恵を出し合い政策を決定してほしい」との民意を踏みにじることなかれ。
 やはり政治の理想は「超人による独裁」が理想だと最近思う。民主主義は現在の政治状況の中ではまだましだという理由で選ばれている。
これは哲学でならったもの。ギリシア時代のことだったか。プラトンかソクラテスか?昔の人が考えたことって案外真理をついているなあと思う…

大日本帝国憲法がすべて悪いわけではない

2009-01-13 21:59:55 | 歴史
 戦前作られた「大日本帝国憲法」。「天皇主権」「統帥権の独立」「兵役の義務」「臣民の権利は法律の範囲内に於いて」「臣民の権利は安寧秩序を妨げない限り」と、民主主義には不完全で「外見的立憲主義」と言われるこの憲法。筆者も「大日本帝国憲法の制度的限界」と題して、太平洋戦争に至るひとつの理由をこの憲法に求めた。ただ、すべてこの憲法が諸悪の根源なのか。私は疑問に思う。「大日本帝国憲法」を論ずるなら、その条文を逐一見る必要がある。そこで、本稿では実際に憲法の条文を用いて論じてみたい。

第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
これをもって、大日本帝国憲法は非民主的な天皇大権を認めた憲法だと思われがちだが、憲法はその条文をよく見てみると、意外に現在の「日本国憲法」に近いことがわかる。

第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
この条項をみると、ほぼ美濃部達吉が主張した「天皇機関説」という解釈が正しいと思われる。天皇であっても、「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」を統治権を制限されていたのである。

第8条 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
 この条項をみると、天皇は法律を超える勅令を持っている。まさに天皇大権とも思える(それであっても帝国議会の閉会中のみしか勅令は出せない)。しかし、次の条項を見てみよう。
第8条2 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ
 とある。すなわち、天皇の勅令とはいえども、次に招集された帝国議会で承諾されなければ天皇の勅令は「其ノ効力ヲ失フ」とある。これは現在の日本国憲法第54条の「参議院の緊急集会」に似ている。日本国憲法でも、衆議院の解散中で緊急の必要がある時は、参議院の緊急集会を求めることができる。ただし、緊急集会で決まったことは次の衆議院で同意がない場合には「その効力を失ふ」とある。

第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
 とあり、帝国議会は立法権で「天皇に同意の意思表示をする」だけの機関であるように思う。しかし、
第37条 凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス
 とあり、天皇は「帝国議会ノ協賛」がなければ法律を作ることができないわけで、帝国議会の力は強いことになる。「帝国議会ノ協賛」が必要ない唯一の法律は、
第74条 皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス
 とある。つまり、「皇室典範」は帝国議会の権能の枠外ということになる。ここに抜け道ができてしまいそうであるが、
第74条2 皇室典範ヲ以テ此ノ憲法ノ条規ヲ変更スルコトヲ得ス
 とあり、「皇室典範」を使って大日本帝国憲法を骨抜きにしようと思っても、この条項があるので出来ないのである。

第46条 両議院ハ各々其ノ総議員3分ノ1以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開キ議決ヲ為スコトヲ得ス
第48条 両議院ノ会議ハ公開ス但シ政府ノ要求又ハ其ノ院ノ決議ニ依リ秘密会ト為スコトヲ得
 第46条は日本国憲法の第56条、第48条は日本国憲法の第57条とほぼ同じである。第46条があるからこそ、初期議会(1890~1894)において政府は吏党(政府を支持する党)だけで採決することはできず、民党の主張に左右されたのである。第48条も情報公開の原則を謳ったものであり、現在に通じている。

第52条 両議院ノ議員ハ議院ニ於テ発言シタル意見及表決ニ付院外ニ於テ責ヲ負フコトナシ但シ議員自ラ其ノ言論ヲ演説刊行筆記又ハ其ノ他ノ方法ヲ以テ公布シタルトキハ一般ノ法律ニ依リ処分セラルヘシ
 これは、日本国憲法第51条にもある。議院の自由な言論・表現を保障するために、議員の院外での発言を免責したものだ。もし、尾崎行雄議員の「共和演説事件」(尾崎が院外で「絶対あり得ないことではあるが、もし日本が共和国だったとすれば、大統領は三菱などの財閥の長が就任するだろう」と言って、天皇に対する不敬罪を問われ文部大臣を辞任した事件)も、院内での発言だったなら免責されることになる。同様に美濃部達吉が主張した「天皇機関説」も院内であれば免責される(もっとも明治憲法下では、演説・刊行をした時点で法律によって処分されるが…)

第53条 両議院ノ議員ハ現行犯罪又ハ内乱外患ニ関ル罪ヲ除ク外会期中其ノ院ノ許諾ナクシテ逮捕セラルヽコトナシ
 日本国憲法第50条の「議員の不逮捕特権」とほぼ同じ。この条項が戦前からあったなんて初めて知った。民主的だ。

第55条 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
 とあり、国務大臣は天皇の行政権の行使に対して輔弼(助言する)ことしかできないように思えるが、次の条項で
第55条2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
 とあって、天皇は「国務大臣ノ副署」(副署=署名の際に添える署名のこと)がないと行政権を行使できないようになっている。

 以上のように見ていくと、「大日本帝国憲法」は、立憲政治をすべて骨抜きした憲法ではないことがわかる。この憲法が1889年に作られたというのを考えると、当時としてはやはり民主主義へ一歩前進したのではないかと思う。では、「大日本帝国憲法の制度的限界」とは何か。それは、日本の民主主義の進展に対して憲法が追いついていなかったからではなかろうか。つまり、明治時代(というか1889年)であればこの憲法でもよかった。しかし、大正デモクラシーがおこり、憲政の常道など民主主義が成熟しかけた日本の政治において、この憲法は遅れていたのではなかろうか。「大日本帝国憲法」の賞味期限(と言う言葉が適切かどうか疑問だが)は日本の状況からするとおよそ30年間くらいで、1919年頃にはすでに時代遅れとなっていた。しかし、そのまま憲法が改正されなかったため、「藩閥政治用」に作られた解釈を利用して軍部が台頭した。結果、あの無謀な戦争が始まったと言えないか。
 それでもやはり「大日本帝国憲法」は内閣の規定が第55条の「国務大臣」についてしか触れて折らず、先のブログでも触れたように、戦前の日本でも政治的リーダーであった「首相」の地位に触れていない。政治的リーダーである首相が「国の最高法規」に触れられていないというのは、やはり制度的欠陥であると言わざるを得ない。この点を改めない限り(もしくは「本来の主権者である天皇が主体的に統治」しない限り)、この憲法は国の政治実態と大きく乖離したものであったと言えないだろうか。

 さて、憲法は国の最高法規であるが、「大日本帝国憲法」と「日本国憲法」はいずれも憲法改正についての手続きに触れている。つまり、時代に合わせた改正を前提に作られた憲法と言える。現在の日本国憲法は形式上は「大日本帝国憲法」の改正という手続きで作られた。しかし、これは太平洋戦争の敗北という大きな外圧の元に行われたものであり、純粋に時代に応じて改正されたとは言い難い(日本国憲法が押しつけ憲法か、自主制定憲法かということは論点から外れるのでここでは論じない)。
日本国憲法が作られてからすでに60年以上が経過した。インターネットの普及、人権問題の追求、経済や文化のグローバリズム化、高度情報化社会と日本国憲法が施行された1948年とはずいぶんと状況が変化した。戦後すぐの頃から比べれば憲法改正における抵抗感が国民から確実に減った。「憲法を変える」「憲法を変えない」という視点だけではなく、「日本に住む人がより良く生活するためには政治はまず何をすべきか」ということを大前提に、憲法・法律・政治組織などの在り方を論じなければならないのではないか。ただ単に憲法の条文をいじって変えてみても、人間の生活には反映されにくい。「木を見て森を見ず」「森を見て木を見ず」の両方でもだめで、「木を見つつ森も見る」ことが必要かも知れない。


中世復元城郭・逆井城遠征

2009-01-12 20:56:55 | 歴史

また、中世城郭に行ってきましたので報告です。今回訪問したのは逆井城。この城は茨城県板東市(旧猿島町)というところにありますが、この場所がなんとも不思議なところ、車でちょっと走れば千葉県にも埼玉県にも行くことができます。県境が複雑に混ざった地域です。
アクセスはあまりよくなく、最寄りのICも駅もありません。東北自動車道の久喜ICから車で50分ほどの場所。ICから20kmくらいあったでしょうか。車以外の交通手段で行くとかなり不便です(逆井城城跡公園には無料の駐車場があります)。
逆井城は古河公方に仕える逆井氏の城郭です。1536(天文5)年に北条軍の大道寺駿河守の攻撃によって逆井常繁が敗死し落城。後に北条氏繁が1577(天正5)年に同地に城を築き「飯沼城」とした。1590(天正18)年に北条氏が豊臣氏に征討されると廃城となった。


現在の復元は北条氏が築いた頃の城の様子を元に行っているそうです。城跡公園で特に目立っている二層櫓と井楼矢倉は模擬だそうです。高根城と同じような土塀の黄色が、中世城郭の雰囲気がよくでています(これが塀が白いと近世城郭に見えますよね)。


まず外観。外堀と土塀までかなりの落差です。


二層櫓への入口の木橋。下をみるとやはりかなりの高度があります。


木橋の支えは小さい子どもだとすり抜けてしまいそう。お子様連れならしっかりと手を握っていましょう。


二層櫓の中は特になにもありません。展望がよいですが、井楼矢倉の展望はさらにいいです。


土塁の上に建つ土塀もかなりの高さがあります。鉄砲の穴もあり、本格的です。


井楼矢倉の高さはかなりのものです。この矢倉は時代考証を重ねて中世の雰囲気に近づけてはいますが、模擬櫓です。屋上に登る階段も当時はこんな上りやすい階段ではないでしょう。おそらくハシゴだったのかな?それではなかなか矢倉屋上からの景色が見れないために復元では階段にしたのでしょう。忠実に復元することと、利用しやすい配慮、相反する課題に整備した人は苦しんだことでしょう。ちなみに、この矢倉も手すりが子どもではすり抜けてしまうくらいもすき間があるので、小さなお子様連れなら子どもは登らせない方がいいでしょう。ちなみに井楼矢倉を降りる時には出入口の柱に注意。結構低い所にあるので、頭を強打。とっても痛かった…。


井楼矢倉の屋上には木の盾がありました。矢や鉄砲除けでしょう。こんなところにもこだわりが見て取れます。


公園にはもう一つ井楼矢倉があります。しかし、こちらは土塀とセットになっていないので、復元施設としては淋しい印象があります。しかも、小さい子が登って怪我をしたのかロープで立ち入り禁止にされていました。


逆井城の敷地の中で復元櫓門と木橋をみつけました。これは発掘調査に基づいて整備・復元したものだそうです。外堀の門とは違って敷地内の門であるのに、結構立派な櫓門です。八王子城の主殿の門もこのような櫓門が建っていたのでしょうか。中世の前期であれば簡単な冠木門くらいですが、安土桃山期になると江戸時代の片鱗が見えます。


ここでは礎石をチェック。八王子城の主殿門と見比べてみます。八王子城の主殿の門にも大きな4つの礎石がありましたが、このような柱の下にあったんでしょうか。う~ん。


逆井城の東側(土塀の反対側)には、「比高二重土塁」があります。公園の設置した説明文によると「高さが外側の土塁に比べて内側土塁が高くなっています。このような土塁を比高二重土塁といい、後北条氏の築城法の特色のひとつです。」とあります。写真でみるとそれほど高くない土塁であることがわかります。ひょっとすると戦国時代当時はもっと堀が深かったかもしれませんね。


公園の敷地内は、関宿城門が移築されていました。江戸時代のものですからやはりりっぱなものです。ここでも礎石の状況をチェックしました。中世城郭は復元されていない史跡の方が多いので、礎石をチェックできるようになれば、頭の中のイメージでの復元ができます。


関宿城門をくぐると大台城の主殿がありました。大台城は安土桃山時代に建てられているので逆井城と同年代です。残念ながら中には入れません。石組みの側溝や、縁側をチェックしました。中世の城郭には天守閣などありませんので、メインとなる郭にはこのような主殿が建っていたのでしょう。


公園にはさらに観音堂もあります。大安寺(岩井市)にあったものを移築したと説明板にありました。江戸時代に再興されたもののようです。


櫓門と木橋の近くに、「逆井城」の石碑がありました。復元建物をバックに記念写真スポットですね。


公園管理棟が敷地に中央にありましたが、窓口は開いていませんでした。休日は休みということは、パンフレットなどは配って折らず、枝の剪定や落ち葉掃きなどの事務的な管理のみでしょうか。管理棟には手打ちそば屋がありました。逆井城のお土産でも扱ってないかな~と思いましたが、入口が中から見えなかったので、お土産商売はしてないだろうとあきらめて入店しませんでした。


逆井城跡公園は、中世城郭を堪能するのにはとても適した城郭です。高根城のようにリアルに体感できるので、イメージが湧きます。ただ、逆井城も高根城も資料館がありません。実際に訪れてその城がどういう歴史を持っているのか。どういう構造で成り立っているのかは、公園に建つ説明板を見るより他ありません。城郭を無料で体感できるのは大変ありがたいことです。広く中世の歴史を知ってもらうことに貢献していると思います。しかし、歴史を深く学びたいと思った時にはこの施設だけで足りるでしょうか。私はこの逆井城跡ではどんな遺構が出てきたのか発掘調査の概要を知りたかった。また復元する際にどんなことに気をつけて行ったのか知りたかったです。例え有料であってもやはり資料館があってほしかった。せめて板東市の市役所で「発掘調査報告書」をもらえればいいのだが…。関宿城門や大台城主殿などの移築展示もいいのですが、やはり逆井城に来たのなら逆井城のことが知りたい。ここには本来どんな施設があったのか、北条氏繁が大規模に改修したというのですから、その復元模型とか、平面展示とかでもよかったので知る手段があればいいなと思いました。
子どもを遊ばせるには絶好の環境です。休日にもかかわらず散歩がてらの人くらいで込んでいません。敷地内の広場には芝生があって自転車も走ってこないので、私の子ども2人は大人と手をつながなくても安全に遊べます(模擬井楼櫓などは別)。

 今のところ、復元中世城郭としては「一乗谷朝倉史跡」(福井県福井市)が群を抜いてよかったです。復元武家屋敷や町屋敷、さらには博物館もあり内容充分でした。次によかったのは「湯築城」(愛媛県松山市)です。市民運動で遺構が守られ復元施設が整備。無料の資料館(もっと充実してほしいですが)もあります。3位は「江馬氏館」(岐阜県飛騨市)で、庭園や会所の復元が見事でした。「高根城」(静岡県浜松市)も小規模ながら細部までこだわって復元された施設が見事。七尾城も一乗谷朝倉史跡くらい復元してほしいですが、予算的に難しいでしょうから、せめて湯築城くらい復元できないでしょうかね…。

恐慌

2009-01-09 20:24:01 | 歴史
仕事で私は確認ミスが多い。よく確かめないで仕事をするからだが、後で挽回するもとても後悔する。毎日人間関係で気を使う営業の仕事なんて自分は絶対できないだろう。後悔しても始まらないし仕方ない。次に気を付けようと思っても、またミスがでる。ああこの仕事向いていないかなあ。とも思うけど不況の世の中に仕事なし。さらに自分には向いているかどうかわからないけど、自分はこの仕事が大好きだ。この不況の中でも仕事があるだけありがたいと思う。
ミスする度に思う。周りが助けてくれた。最悪の事態はまぬがれた。落ち込んでいても周りを余計疲れさせるだけ。ちょっとしたことなら問題ない。本当のことを話した方がいい。そうやって私は自分の子どもにも教えている。
ある漫画の一節のセリフにこんなのがあった。「一生懸命やった上でのミスならいい。ミスを恐れて動かない人より余程いい」。自分もそんな余裕のある大人になりたい。
今夜の関東地方はとても寒いです。やはり冬は寒くなくちゃとついこの間まで思ってたけど、やっぱり寒いのはやだなあとか勝手な事を考えながら帰宅路を向かっています。