毎年夏恒例の代休使って平日一人旅。
今回は群馬県太田市金山城跡に行くことに。…しかし、計画の段階であまり気が進まない。金山城の存在は知っていたけど、鉢形城や飛山城などを見ていると、金山城のすごく整った石垣は豪華すぎ「こんなもの安土桃山時代とはいえあったの?」って疑問に思っていたから。
さらに、金山城のついでにサブとなる史跡攻略もなかなか候補地が見つからず、「飛山城→宇都宮城→下野国庁跡」と2009年に回る計画を立てた時のドキドキとはちょっとちがった。
…しかし、そのドキドキの無さはいい意味で裏切られることになった…!
東京から高速で約2時間。北関東自動車道の太田桐生ICで下車し、下道で10分ほど。すぐに金山城跡にたどり着く。
金山城遠景です。かなりのおっきな城です。家を出た時間が5時半ごろ。金山城についたのが7:10頃。「太田市立史跡金山城跡ガイダンス施設」に行くのを楽しみいるんですが、開館時間は9時から。金山城跡で2時間も入れるんだろうか…と不安を残しつつ城跡へ。
金山公園の入口です。「金山観光道路入口」とあります。ここから本丸近く駐車場まで車で約10分ほど。
車道の横に登山道も整備されて、高齢者の方が結構ハイキングしていました。なれど車で10分の距離なら徒歩で30分以上はかかります。さらに最寄駅から麓までの距離を計算するとゆうに1時間以上…金山城訪問は自家用車がお勧めです。
駐車場までの道のりもかなり整備されていて苦なく登れます。また駐車場も広いのでたとえ土日でも満車ということはないと思います。なれど、駐車場の路面にはタイヤのスリップ跡だらけ…。さらに食い散らかし飲み散らかしの跡が…夜の金山城はちょっと治安が悪そう…お気を付けを。
駐車場には展望台も設置されているのですが、木が邪魔でそれほど見晴らしはよくありません。この展望台の西には、金山城の西城地域が見えれるのですが…。さ…次々…。
奥の説明板には「見附塹址」とあり、手前の説明板には「西城筋違城門」と書いてあります
駐車場の部分は金山城でも西城とよばれ、中心をなしていた実城の西側を守備する曲輪です。
駐車場から西にこのような通路が広がり、西城と見附出丸をつないでいたみたいです。かなり金山城は大きな規模の城だったんですね。
西城の曲輪を歩いて実城方面へ向かいます。結構アップダウンがあります。そして西城域も結構広いです。
「史跡金山城」の石碑の裏をみて、金山城が国指定史跡に昭和9年に指定されたってことがわかりました。七尾城も同じ昭和9年。同じ年ってのは偶然じゃなくて、昭和9年に国指定史跡の制度が始まった…とかなにかありそう。
この石碑の左側が園路(公園を訪問する人のために作られた道路)で、右側から行くと戦国時代当時の通路だそうです。私は迷わず右側へ!
「旧通路」=当時の通路ってところですが、実際に発掘調査が行われていたんですね。通路の谷側には縁石も見られ、しっかりとした土木工事が行われていたことがわかります。
すごい堀切です。「西矢倉台西堀切」と言われているそうです。この堀切は通路としても使われていたようです。
そしてこの通路を行くと…
そう…「通り抜けられません」に出ます…ではなくて、「桟道」(かけばしみち)にでます。
西城と実城をつなぐ通路で、万が一西城が敵方に落ちた時には、桟道を壊して敵の侵入を防いだらしいです。当時の桟道はそのために非常に簡易に作られていたようです。現代の桟道も簡単に作りすぎて落ちる危険性があるので、通行禁止…(笑)渡ってみたかったけど、本当に橋は結構ぼろいし、下に落ちたら一貫の終わりそうだからやめておきます(笑)
では当時の通路の桟道が通れないので、園路に戻って先に進みます。
やはり公園の道。歩きやすいです。
さて、また堀切が出てきました。これは西矢倉台下堀切と言います。
西城から実城へ向かう2番目の堀だそうです。この堀が前回の堀と違う点はなんでしょう?ではシンキングタイム…。
…考え中…考え中…
では答えいいですかね?前回の堀は逆ハの字でした。それが今回の堀は底の部分が凹になっています。これは実城に近い堀だけに登りにくくしているそうです。スゴイ工夫ですね。そしてそういう細かいところまで復元する役所も偉い!!この堀は通路として使われなかったようで、実城に近いという点で堀にも違った役割があるんですね。
さて…この堀…した行けそうです。ひょっとしたら通行禁止になっていた桟道が見れるかも…と思い降りてみました!するとやはりありました!
ありました!しかもここでちょうど桟道が終わっています。桟道はやはり強度が危険そうなのでわたるのは断念し、桟道の終わったところから当時の通路に合流して進むことにします。
桟道が終わったところから、斜面を登り始めます。通行禁止になっていたせいで植物が藪のようになっていますが、なんとか切り抜けました。
すると出てきたのが西矢倉台通路です。
西城と実城をつなぐ西矢倉台には新旧2つの通路が発掘調査で見つかっています。谷側には崩落防止のために石を積んで斜面を平らにしていたようです。
おっとここで園路と合流しました。ん!?
振り返ってみると気づくこと。この道路の違いわかります?石積みの道路は「当時の通路」を表しています。いっぽうアスファルトの舗装の方は、現代の園路です。こうやって平面展示でも遺構かそうでないかをわかりやすくしているとは…さすがだなぁ。
さぁ、いよいよ次から実城です…が、朝早く出立したゆえ、もう眠いので今日はここまで。次回をお楽しみに!
今回は群馬県太田市金山城跡に行くことに。…しかし、計画の段階であまり気が進まない。金山城の存在は知っていたけど、鉢形城や飛山城などを見ていると、金山城のすごく整った石垣は豪華すぎ「こんなもの安土桃山時代とはいえあったの?」って疑問に思っていたから。
さらに、金山城のついでにサブとなる史跡攻略もなかなか候補地が見つからず、「飛山城→宇都宮城→下野国庁跡」と2009年に回る計画を立てた時のドキドキとはちょっとちがった。
…しかし、そのドキドキの無さはいい意味で裏切られることになった…!
東京から高速で約2時間。北関東自動車道の太田桐生ICで下車し、下道で10分ほど。すぐに金山城跡にたどり着く。
金山城遠景です。かなりのおっきな城です。家を出た時間が5時半ごろ。金山城についたのが7:10頃。「太田市立史跡金山城跡ガイダンス施設」に行くのを楽しみいるんですが、開館時間は9時から。金山城跡で2時間も入れるんだろうか…と不安を残しつつ城跡へ。
金山公園の入口です。「金山観光道路入口」とあります。ここから本丸近く駐車場まで車で約10分ほど。
車道の横に登山道も整備されて、高齢者の方が結構ハイキングしていました。なれど車で10分の距離なら徒歩で30分以上はかかります。さらに最寄駅から麓までの距離を計算するとゆうに1時間以上…金山城訪問は自家用車がお勧めです。
駐車場までの道のりもかなり整備されていて苦なく登れます。また駐車場も広いのでたとえ土日でも満車ということはないと思います。なれど、駐車場の路面にはタイヤのスリップ跡だらけ…。さらに食い散らかし飲み散らかしの跡が…夜の金山城はちょっと治安が悪そう…お気を付けを。
駐車場には展望台も設置されているのですが、木が邪魔でそれほど見晴らしはよくありません。この展望台の西には、金山城の西城地域が見えれるのですが…。さ…次々…。
奥の説明板には「見附塹址」とあり、手前の説明板には「西城筋違城門」と書いてあります
駐車場の部分は金山城でも西城とよばれ、中心をなしていた実城の西側を守備する曲輪です。
駐車場から西にこのような通路が広がり、西城と見附出丸をつないでいたみたいです。かなり金山城は大きな規模の城だったんですね。
西城の曲輪を歩いて実城方面へ向かいます。結構アップダウンがあります。そして西城域も結構広いです。
「史跡金山城」の石碑の裏をみて、金山城が国指定史跡に昭和9年に指定されたってことがわかりました。七尾城も同じ昭和9年。同じ年ってのは偶然じゃなくて、昭和9年に国指定史跡の制度が始まった…とかなにかありそう。
この石碑の左側が園路(公園を訪問する人のために作られた道路)で、右側から行くと戦国時代当時の通路だそうです。私は迷わず右側へ!
「旧通路」=当時の通路ってところですが、実際に発掘調査が行われていたんですね。通路の谷側には縁石も見られ、しっかりとした土木工事が行われていたことがわかります。
すごい堀切です。「西矢倉台西堀切」と言われているそうです。この堀切は通路としても使われていたようです。
そしてこの通路を行くと…
そう…「通り抜けられません」に出ます…ではなくて、「桟道」(かけばしみち)にでます。
西城と実城をつなぐ通路で、万が一西城が敵方に落ちた時には、桟道を壊して敵の侵入を防いだらしいです。当時の桟道はそのために非常に簡易に作られていたようです。現代の桟道も簡単に作りすぎて落ちる危険性があるので、通行禁止…(笑)渡ってみたかったけど、本当に橋は結構ぼろいし、下に落ちたら一貫の終わりそうだからやめておきます(笑)
では当時の通路の桟道が通れないので、園路に戻って先に進みます。
やはり公園の道。歩きやすいです。
さて、また堀切が出てきました。これは西矢倉台下堀切と言います。
西城から実城へ向かう2番目の堀だそうです。この堀が前回の堀と違う点はなんでしょう?ではシンキングタイム…。
…考え中…考え中…
では答えいいですかね?前回の堀は逆ハの字でした。それが今回の堀は底の部分が凹になっています。これは実城に近い堀だけに登りにくくしているそうです。スゴイ工夫ですね。そしてそういう細かいところまで復元する役所も偉い!!この堀は通路として使われなかったようで、実城に近いという点で堀にも違った役割があるんですね。
さて…この堀…した行けそうです。ひょっとしたら通行禁止になっていた桟道が見れるかも…と思い降りてみました!するとやはりありました!
ありました!しかもここでちょうど桟道が終わっています。桟道はやはり強度が危険そうなのでわたるのは断念し、桟道の終わったところから当時の通路に合流して進むことにします。
桟道が終わったところから、斜面を登り始めます。通行禁止になっていたせいで植物が藪のようになっていますが、なんとか切り抜けました。
すると出てきたのが西矢倉台通路です。
西城と実城をつなぐ西矢倉台には新旧2つの通路が発掘調査で見つかっています。谷側には崩落防止のために石を積んで斜面を平らにしていたようです。
おっとここで園路と合流しました。ん!?
振り返ってみると気づくこと。この道路の違いわかります?石積みの道路は「当時の通路」を表しています。いっぽうアスファルトの舗装の方は、現代の園路です。こうやって平面展示でも遺構かそうでないかをわかりやすくしているとは…さすがだなぁ。
さぁ、いよいよ次から実城です…が、朝早く出立したゆえ、もう眠いので今日はここまで。次回をお楽しみに!