畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

小田原城訪問記

2016-08-07 04:44:00 | 歴史

 相模国の小田原城は周知の通り戦国大名北条氏の本拠地。1938(昭和13)年に国指定史跡に指定された。現在本丸には天守閣があるが、これは1960(昭和35)年に小田原市市制施行20周年を記念事業として総工費8000万円(当時)をかけて作られたもの。天守閣は宝永年間の再建の際に作られた模型や設計図を元に作られたもので、模擬天守ではなく、復元天守閣と言える。とは言え、江戸時代の天守の復元であるので、小田原城のイメージである戦国大名北条氏の拠点としてのイメージは想像し難い。


 さて、復元天守閣は完成からすでに50年以上経っており、耐震化工事が行われており、その際に天守閣の資料館もリニューアルされて2016(平成28)年5月に再オープンとなった。一度2003(平成15)年に訪れているが、せっかくの機会なので我が嫡男と訪問してきた。


 小田原厚木道路を使って車で小田原城へ。近くに駐車場がなかったので、有料の小田原スポーツ会館の駐車場に停めた。

 この説明板は小田原城の外にあるものだが、復元されつつある小田原城の姿がよくわかる空撮写真がある。1971(昭和46)年には常盤木門の復元が行われ、1997(平成9)年には銅門が、2009(平成21)年には馬出門が復元されている。2013(平成25)年からは御用米曲輪の発掘調査が行われており、昨年度も発掘調査説明会が催されるなど、江戸時代の小田原城の活発化した整備保存が進んでいる。



 小田原スポーツ会館から道路を挟んですぐ見えるのがこの堀と石垣。堀の向こう側に見えるのが南曲輪。昔はこの曲輪の西南に二重櫓があったという。

堀を東に進み、大正天皇が皇太子の時にいわれがある藤棚を通り過ぎる。

 すると、御茶壷橋という城に入る橋がある。この橋は小峯橋と言われるそうだが、江戸幕府の将軍家に献上する茶壷を保管する倉庫があったことから、この名前が付いたという。



 観光バスなどが停まることができる大きな駐車場があるこの場所から、大手筋(正規の登城ルート)ではないが、小田原城に入っていく。



これは御茶壷曲輪からみた、住吉橋と銅門。御茶壷曲輪から土橋を渡る。

この曲輪は馬屋曲輪と言われるが、なぜか曲輪内に「二の丸観光案内所」がある。正式には、写真右の馬出門から入り、この馬屋曲輪を通り住吉橋から銅門に行くルートが本丸へ行くのが大手筋である。銅門が二の丸の表玄関であることから、この「二の丸観光案内所」がある曲輪は正式には二の丸ではない。…ややこしい…。



 馬屋曲輪の南東隅の櫓があったであろう場所から、西を臨む。見えている建物は馬屋曲輪に建つ二の丸観光案内所。この案内所には手作り甲冑や木造の天守閣模型などが展示されている。この案内所の建物自体が戦前の1933(昭和8)年に建てられたもので、昔は図書館に使われていてたか。小田原城とは関係のないところで、この建物の価値が高まっているとのこと。



 城内にはこんな看板が。平成の大改修が終わってすぐにでも行こうと思ったので、ゴールデンウィークであることに加え、毎年5月には北条五大祭りが催され、とんでもない数の観光客が訪れる…ということで初日に行くことは控えました。


では、いったん馬屋曲輪から馬出門を通って外へ。

奥には立派な枡形が見えます。

いったん外にでました。三の丸から二の丸へ続く大手筋のルート。発掘調査で再現されたこの馬出門は、1672(寛文12)年に枡形形式に改修されて江戸末期まで続いたものを再現している。


さて、もう一度馬出門を通り、馬出曲輪を通って住吉橋方面へ行きます。

住吉橋は途中まで土橋で途中から木橋の構造となっている。

住吉橋を進むと、枡形となり、二の丸の玄関である銅門(あかがねもん)がある。城内への大手筋であり、主要施設へ続く門だけにかなりの規模である。



 銅門をくぐると銅門広場に到着。この広場の北に堀など隔てるものなく(現在は桜の木が隔てているが)二の丸広場があるが、この銅門広場が二の丸であったのかどうかは、城内の説明板などではよくわからない。

二の丸広場から階段を登れば、1971(昭和46)年に復元された常盤木門へ。

 銅門と同様、大手筋にあたることから大きな門であるが、樹木が多いなあと思う。40年以上前に復元されたので植栽が豊かになってしまったのかなと思っていたが、説明板を見ると、「常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれている。」とあった。つまり、この豊な植栽はしっかりとした復元。説明文を見ないとわからないものですね。また平和だった江戸時代ならではの趣向でもあると思います。

ここも本丸に続く門だけにかなりの規模の門である。そしていよいよ本丸へ。

 本丸側の常盤木門の建物にはお土産物屋が入っている。昨今の戦国ブームで武将の家紋が入った色々なグッズが売られている。残念ながらどれも織豊期の有名武将ばかりで、戦国期の大名のグッズなどはあまりない。無念。



 常盤木門をくぐって本丸へ向かうと最初に見えるのがサル山。これは明治以降に市の施設として使われたものの名残なんだと思う。小田原城だけでなく、明治になって廃城になった城は、市役所や軍の施設など国有地として利用されたばかりでなく、民間に払い下げられた場合もある。石川県の金沢城では県立高校があったし、愛媛県の湯築城では遊園地にもなっていた。小田原城は動物園として使われていたのだろう。



 今回のメイン。2016(平成28)年にリニューアルされた天守閣の展示を見る。そういえば、今年の4月に熊本で大きな地震があり、熊本城も大きな被害を受けた。そこで小田原市は5月1日の小田原城天守閣も見学料を全額熊本市へ寄付することを発表し、大きな反響を呼んだ。この行為は、400年前の恩返しと言われた。1633(寛永10)年の寛永小田原大地震で大きな被害を受けた小田原城。その時の小田原藩主稲葉と仲が良かった熊本藩の藩主細川が手紙と共に見舞いの使者を送ったと言う。そしてネットを中心に「今回の寄付は400年前の恩返し」だと話題を呼んだ。ネットもこういう事に使われると本当に心が温かくなる思いがします。


閑話休題。

 天守内は撮影禁止以外の指定がない場合以外カメラOKという太っ腹!

町の様子や城の様子に関するものはやはり江戸時代のものが多い。

図や模型なども江戸時代の小田原城しかありません。戦国時代の北条の小田原城の模型がみたいなとちょっと思ってしまいます。
 ただ、北条氏に関する展示も多く、初代北条早雲から5代北条氏直まで人物別に北条氏のできごとを紹介するパネルがあります。(残念ながらこちらは写真撮影不可で掲載できず)さらに、北条の古文書の判物と印版状の説明など、古文書の多く残る北条氏を生かした展示になっている。惜しいのは、この図録を販売してほしかった。写真撮影がダメなら展示図録を売ってほしい。


 また、戦国期の小田原城の総構えや北条5代ゆかりの地の紹介などもあって、次に見るべく場所を探すこともできる。さらに江戸時代の稲葉氏のゆかりの品ばかりではなく、北条氏の甲冑なども展示されており(改修の後は見られるが、兜に戦国時代の形態を伝えているとある)、「小田原城と言っても江戸時代の小田原城だし…」と思っている人には、十分戦国の北条氏を知ることができる展示になっている。



 小田原城の天守閣からの小田原市の景色。ところどころこれは城関係の地形ではないか、と思われるような曲輪のような地形を発見することができる(写真右奥の緑の台地など)。本当に景色がよく、秀吉の小田原城攻めの際は秀吉の大軍が見え大いに北条軍は慌てたことだろうと思ってしまった(もちろん戦国時代に天守閣は無かったが)。それが決められない政治の代表格である「小田原評定」につながってしまうのかなとも思いながら小田原市内のキレイな景色を見ていた。



 小田原城天守の最上階には、平成の大改修で作られた「摩利支天と天守七尊」という小田原城を守る本尊を飾る部屋が再現されていた。あまりありがたさが伝わらないのは、江戸時代の信仰などに詳しくないからだろうか…。もうちょっと勉強をしようと思った。


さらに小田原城内にある、「歴史見聞館」というところも行った。

 江戸時代の小田原の街並みを再現したものなどもあるが、どちらかというと紙芝居のような演出で歴史的な出来事を伝えるものが中心で、子ども向けの施設である。

 その中でも、幕末開港後に取られた小田原の写真があってびっくり。目の前に260年前の光景が見える。大八車や座ってカメラを見つめる庶民など当時の息づかいが聞こえそうな迫力のある写真に吸い込まれてしまった。これらの写真を元に先ほどの街並み再現をしたのだな、と納得。
 小田原城を去る前に、南曲輪にある「郷土文化館」にも寄る。しかしながら嫡男はもう飽き気味だったので、展示を見学するというよりは、刊行されている図録などを買った。ここでは、研究紀要や、図録(天守閣の図録ではなく、この郷土文化館での図録)を見ることができる。歴史見聞館と違って、こちらは専門的な内容。書籍を2冊購入して小田原城を後にした。

浜松城in2015

2016-08-06 08:34:00 | 歴史
 浜松城には前回2012(平成24)年度に訪れています。「浜松市制100周年記念事業 浜松城公園歴史ゾーン整備」で本格的に整備が開始される前にその姿の変遷を見たかったからです。そして2014(平成26)年には、天守門の復元と、石垣近くの大きな木を伐採し、景観を良くしたそうなので、今回2015(平成27年)に再び訪れてみました。


早速、浜松城公園へ。

うん!?なにやらプレハブが…。

近くにある説明板を見ると、ここは清水曲輪という場所。その上にたつこのプレハブは「家康公の城展示館」という施設のようです。2011(平成23)年には隣の元城小学校のグラウンドの発掘調査など、精力的に調査を行っています。その調査の中間報告のための建物のようです。

主な報告は展示シートによると3つ。
①2011(平成23)年における元城小発掘調査。1560年~1570年頃の井戸の発見などがあったようです。
②2014(平成26)年における元城町東照宮境内における発掘調査で、浜松城の全身である引間城の調査。大量のかわらけなどが発掘されたそうです。神社も協力的なら発掘調査できることに驚き。
③2014(平成26)年における本丸南側における清水曲輪の発掘調査。ここには江戸時代の絵図にない堀跡が確認された。この堀は戦国期に徳川家の領土拡張において、城内の整備拡張も行われた一環として、戦国時代の最中に埋め戻され曲輪になったとのこと。江戸時代の絵図の正確性が改めて浮き彫りに。プレハブながら出土品なども展示しており、見ごたえのある施設だった。しかし、内容が専門的なため、一般の方はほとんどいなかったのが残念。



それでは今回のメインである2014(平成26)年に復元された「天守門」へ。写真がブレていてすみません。ではちょっと場所は違いますが、2012(平成24)年の頃の浜松城の写真と比較してみましょう。


上の写真が2012(平成24)年に私が訪れた時の浜松城の石垣の写真です。石垣に雑草や木が生い茂り景観を損ねているのがわかりますね。ただ市民から「木を伐採しないで」という要望もあったようですが、城があった戦国時代は木があると攻城が容易くなるのでほとんど木ない状態だったので、歴史的な景観の復元と自然との共存とは難しいものです。


さて、2015(平成27)年に戻りましょう。

 天守門のアップです。この天守門の左右にはずいぶんと巨大な石が使われ、鏡石と言われている。また、門の下には瓦で作られた排水溝などもあり高い文化水準がうかがわれる。この天守門で復元が模倣されたのは、江戸時代末期廃城直前の姿。

 写真は天守門を本丸側からみたもの。この門は門の部分が狭く、内側部分が広がっている安土桃山時代の門の特徴を継承しているとみられる。



 天守門付近には石垣の説明板もありました。浜松城の石垣は野面積という戦国後期によく見られたものです。浜松城の石垣はいつ頃築かれたかは不明のようですが、安土桃山時代までの築かれたかと推定されています。浜松城の野面積石垣は往年の姿をとどめていますが、2007(平成19)年3月25日に起こった能登半島沖地震で七尾城の野面積石垣が崩れていることからも、大きな地震には耐久性が低い。浜松市を含む中部地方は大きな地震が想定されているので、せっかくの文化遺産が壊れないか心配でもある。



 せっかくなので天守閣も入りましたが、2012(平成24)年にも訪れて紹介していますので、こちらの記事では割愛します。 浜松城の天守閣は安土桃山時代に築かれたらしいが、古絵図などによると江戸時代初期にはすでに喪失している。なので、この天守閣の姿もまったくの模擬天守と言えます。よく見ると天守台の石垣よりも若干小さくあり、コンクリート天守を作り直そうという動きもあったようですが、全くの想像である模擬天守を作るのは最近の歴史復元では見られないので、市も断念して、天守門や櫓の復元に力を入れることになったらしいです。

 こちらは天守閣からみた天守門です。石垣の下からや曲輪から見るとなかなか全体像を見ずらいですが、天守閣からみるとその全体の大きさがよくわかります。


では、天守門の内部に入りましょう。

 この天守門の櫓は、天守閣とは違い廃城となる明治初頭まで維持された。ペリー再来航の年1854(安政元)年に安政地震で関東中部は深刻な被害があったが、天守門は壁が一部壊れた他は甚大な被害は免れた。しかし、時代の流れで廃藩置県が行われた1873(明治6)年に天守門も解体され払い下げられ民間所有となったようです。



 天守門の櫓は、木造復元されており、柱にはヒノキ、梁にはマツが使われている。ただこの日は見物客も多く、櫓の内部全体の写真を撮るにはちょっと…という状態でした。その櫓の内部の中心にジオラマが置かれています。これはジオラマ界では有名な浜松在住の情景ジオラマ作家の山田卓司氏(マツコの知らない世界で山田さんのジオラマが紹介されました)が製作した「三方ヶ原の戦い絵巻」です。三方ヶ原の戦いと言えば、徳川家康が浜松城近くで武田信玄と戦い大敗し、命からがら浜松城に帰ってきた戦いです。徳川家康を戴く浜松市としては負け合戦を取り上げるのも苦しいのですが、市域が合戦場となっており、よく浜松では取り上げられます。この合戦の後、武田信玄が病没し、かの有名な長篠の戦いにつながります。

上記写真はジオラマを徳川氏の陣側から撮ってみました。結構リアルです。



 もちろんジオラマだけでなく、内部を解説した説明板もあるので、しっかりとその復元構造を学ぶことができます。



「浜松市制100周年記念事業 浜松城公園歴史ゾーン整備」の全体想像図です。今度は東京オリンピックが開かれる2020(平成31)年までに、富士見櫓が復元される予定です。次は4年後にまた訪れて報告したいと思います。

小田城訪城記

2016-08-05 20:25:00 | 歴史
 前々から気になっていた茨城県つくば市にある小田城跡(国指定史跡)。2009(平成21)年から復元作業を行っているのを知っており、2015(平成27)年に「小田城歴史広場(仮称)」としてオープン予定と新聞報道で聞いていたので、同年に市役所にメールをして確かめてみると、作業が遅れておりオープンは28(2016)年度初頭になると言われたので見送りにしていた。そして2016(平成28)年4月29日。「小田城歴史広場」が「案内所」(無料の資料館のようなもの)と共にオープンすることが記者発表されたので、同年の夏に訪れた。


 つくば市は広く知られているとおり「学研都市」として栄えている。市内に入ると3車線の大きな道路やつくばエクスプレスの駅近くにはキレイなビルが立ち並んでいる。一方少し車で走ると田んぼも多いという自然と住空間が調和した街である。



 小田城のある地区は上記写真のように、田んぼの多い地区ではあるが、小田城近くになると急に住宅が増え、道路もせまくなった。お城を中心に昔から集落があったのだろうと想像する。

途中、「21世紀の小田地域を良くする会」の大きな看板があり、「中世小田地域想像図」などもあり、この地域が歴史を大切にしているのを感じることができる。ただ、道が狭いため案内所にたどり着くことができず、小田城は見えているのに周りを2周くらいした。案内の看板がオープンしたてのためか小さいのでたどり着くのに一苦労だった。



 ようやく辿り着いた「小田城案内所」。無料なのに小田城主である小田氏の歴史を詳しく知れるし、小田城の出土品や特徴などを詳しく解説するとても良い資料館である。小田城を訪問する前にこちらの案内所で事前知識を入れるともっと楽しく見れる。しかし、湯山城資料館(愛媛県)や八王子城のガイダンス施設(東京都)といい最近は無料でも良い施設が増えているなぁと思うのだが、写真撮影は禁止とのこと。残念。図録などを販売していないから、せっかくの解説も完全に頭に残らないのがさみしい。こういう無料の資料館はぜひ展示図録を刊行してほしいなあと切に願う。



 この案内所に無料の駐車場が10台強あるので、そこから小田城まで歩いて30秒。途中なぜか五輪塔があったのだが出土品?(上記写真)


さて、いよいよ小田城訪城。

この図が復元された小田城の全体図だが、案内所から入ると北(図だと左上)のトイレのある部分から入る。

 復元された小田城は「歴史広場」であり、公園も兼ねているので、周りはサイクリングロードになっている。道路のとなりのこんもりした部分が土塁の復元部分。歴史広場内の入口として一部土塁に穴があけられてトイレがある。宇都宮城の土塁に穴が開いているように、ここも土塁を突き破って入る。

これは、土塁の北側部分。堀と土塁が確認できる。歴史広場入口の西側にも堀はあったようだが、公園としての役目のためサイクリングロードとなり復元はされていない。

 くりぬかれた土塁部分には発掘調査で分かった土塁の変遷がわかるように図化されている。この土塁の変遷の図化は湯山城にもあった。こういう復元にあたって全国に視察にいってよいものを取り入れているのがよくわかる。



 歴史広場入口から、小田城本丸を南方向に臨む。さすが主郭だけあって結構な広さ。しかしこう見ると、平城。戦国期なら後方にある山に作ったはずだが、鎌倉時代頃より小田氏が拠点にしたらしいので戦国の世にあってもこの地に城が残ったのであろうと思う。

北側土塁。

その土塁を登るとこんな景色です。

良い眺め。この土塁は3メートルくらいあるようなので、見渡が良いです。主郭の周りも曲輪があったようだが、今は住宅が広がっています。

この土塁には北虎口跡があり、堀を土橋で渡ったようです。


逆に北虎口から主郭に入ると、大きな通路が真ん中までつながっている。北虎口の土橋もそうだが、これらは小石などで舗装されていたようだ。

そしてその大きな通路の脇には大きな水路。この水路には石畳みで暗渠になっている部分もあり、主郭の通路になっていたことがわかるなど、結構な技術力で城が作られたよう。



大きな通路を通って主郭の東虎口へ。こちらの虎口には水が溜まっています。この堀は空堀なんでしょうか?それとも水堀?

 この東虎口には丈夫な橋が架かっていますが、往時も木橋がかかっていたようで、それを元に橋が架けられたそうです。この木橋を渡るとあるのが東曲輪で、東曲輪から見ると、途中まで土橋で途中から木橋になっているのが写真からわかります。

 この東曲輪にはほとんど建物跡がほとんど確認されなかったことから、出撃の拠点となった馬出だと考えられていると言う。この曲輪も土塁で囲まれているが、現在は民家があるので土塁復元も途中で終わっている。

 このルートが主郭への正式ルートだったためか、木橋の前に「史蹟 小田城阯」という石碑がありシャッターチャンスです。このルートから主郭の大きな通路まではハレ(表舞台)の空間で、通路奥からは柵列も見つかっているようなので、日常空間であるケの空間になっていたのでしょう。


東曲輪から東虎口に入って大きな通路を見渡しています。

 ここが一番のハレの空間だったようで、大きな説明板がある。こういうハレの空間に城内で一番大きな説明板を作るとは、歴史のわかっている人の復元設計で安心。

 大きな説明板に主郭と周りの曲輪の位置関係が載っています。あくまで復元された地域は城の中心部分なんですね。またこの説明板で、鎌倉時代から戦国末期の小田城の変遷についても確認できる。いかに小田氏が小田城を拡張してきたかの歴史がわかる。



 東虎口から大きな通路を奥(北)に進むと、北虎口から来た通路とのT字路になる。T字路の奥は大きな水路で区切られた生活空間(ケの空間)だと想定されている。この空間を小田城では「建物域」と呼び、礎石を伴った多数の建物があったようだ。想像するに、小田氏が生活した常御殿や、料理などを用意する台所、馬屋や倉庫など城を構成する様々な役割の建物があったと想定される。

 建物域から大きな水路を挟んだ南西に「西池跡」と呼ばれる様々な庭石(景石)があった池があった。おそらく水路のすぐ近くにあるので、水路から水を引いていたのだろうか。また、水路を挟んだ生活空間に常御殿があって、そこから眺めた庭だからこそ庭石(景石)が多かったのではないかと想像する。



 西池跡からハレの空間を南に行くと、あるのが南西虎口。この虎口には今までの虎口と違い石垣が組まれている。また、石垣が通路を横断するように組まれているところもあり、四カ所からなる門があったと想定されている。ここから出ると「南西馬出跡」という曲輪に出る。

 上の写真は「南西馬出跡」からみた写真であるが、土塁+堀がある。しかし、馬出曲輪のほうが土塁の一番下より若干高くなっているから、橋が主郭に向かって低くなっている。

 この曲輪の土塁には木柵と旗が立っており、私が2周回った小田城の外から見えた景色はこれだったことがわかる。

 この馬出曲輪から復元まではされていないが、曲輪Ⅴにつながっていた。この木橋を渡った先には1987(昭和62)年に建てられた小田城の説明板があった。復元後にこちらに移設されたのか、元からここにあったのかはわからない。




南西虎口から主郭に戻る。写真左は西池跡。今度は主郭のハレの空間の南東部に向かう。

写真は、南西部の土塁に登って撮影した。写真手前に見える砂利の部分は、この空間が石敷きだったことを示すらしい。それだけ客をもてなす表舞台だったといえる。写真奥に見えるのは歴史広場の四阿(あずまや)。

掘っ立て柱建物跡の部分を四阿として休憩どころにしたもの(もちろん現代の休憩どころとしての意味)。水飲み場もある。この建物の東部分に井戸跡もあった。きちんと市民の癒しの公園としての果たしつつ歴史に配慮する公園化は素晴らしい復元だと感じた。


四阿から南に行くと、東池跡と建物跡がある。

 ハレの空間に築山もあった景勝の東池。それに礎石建物と言えばこの建物は会所(人をもてなすところ)であろう。鉢形城でも触れたが、会所では座って客人をもてなすため、座観(ざかん)で一番美しい景色を見えるようになっている。

池の奥には細かい石があるが、これも実は復元。州浜石と言って砂浜を再現しているという。うーむ実に忠実な復元。残念ながらその奥の築山や庭石は復元されておらず、完全に再現されてとはいかず、その往年の景勝を楽しむことはできなかった。案内所やパンフレットを見ると、この主郭の建物群や園池の配置は、足利将軍邸との共通点が見られるという。同じく足利将軍邸を見本とした立派な庭が見られる江馬氏館のような立派なものが見たいが、復元の費用も多額になるので仕方ないとも言える。



 最初の土塁を切り開いたトイレは、清潔感あるキレイなもの。この歴史広場には市民の人の犬の散歩する人もいた。一部の歴史好きだけでなく、市民の憩いの場としての役割も十分果すことのできる、史跡の復元というのは理想的ではないかと思った。


 この史跡の復元をみて思ったことは、私が好きな石川県の能登地方の宝達志水町の御舘館跡の復元である。御舘館もこの小田城と同じ平城であり、石川県内では珍しい平地の大きな居館であり、ほとんど整備もされていない現在でも立派な土塁と曲輪が見て取れる。また御舘館も御舘集落の中にあり、小田城の復元のように史跡公園化すれば、史跡としての価値の保存の他にも地域住民のための憩いの場として役立つと言える。御舘館跡の保存整備管理もこの小田城を参考にすると、国指定史跡に指定され整備もはかどるのではないかと思った。

ということで小田城跡のレポートはこれで終了!

オマケ附(つけたり)「平沢官衙遺跡」

 さて、今回はもう1つ紹介したい史跡があります。国指定史跡「平沢官衙跡遺跡」。小田城跡から車で10分程の距離にある奈良・平安時代の郡役所の遺跡。



1975(昭和50)年の史跡調査で、重要な史跡であることが確認され、1980(昭和55)年に国指定史跡に指定され、1997(平成9)年に往年の姿に3棟の建物が想定復元された。写真にある左側の建物が、この遺跡の中では最大級の建物である。3棟とも大型の高床式の建物になっており、おそらく奈良・平安の頃の税である稲や麻を収めた郡役所の正倉庫であると考えられている。



遺跡には3棟の建物の他にも礎石が表されたものがあり、多数の建物が並んでいたところが確認できる。

建物の内部に入るには、遺跡の案内所を通さないといけないらしい。普段は南京錠で閉められている。



 入口の説明板を見ると、50以上の建物が確認されたことがわかり、奈良・平安時代で重要な役所だったことがわかる。さらに遺跡の全体を大きな溝で囲っており、郡役所と倉庫という性質上、紛争から守る必要性があったことがわかる。
 案内所に行くのを忘れてしまったが、案内所では出土した土器類や瓦などの展示があるそうです。

 小田城跡観光のついでに寄ってみてはいかがでしょうか?ついでに、国土地理院の「地図と測量の科学館」という施設が車で20分程の距離にあり、そちらも見ごたえがある。だが、つくば市自体が新興住宅地なため、お土産を買う場所が全くなかった。家族へのお土産を探すのに相当苦労すること請け合いなので、高速の道の駅などで茨城県土産を買うのが手っ取り早そう。