ぬえの能楽通信blog

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研能会初会(その25)

2007-03-29 20:57:37 | 能楽
後見座にクツロイで「黒式尉」の面を掛けた「三番叟」は常座に出て「面箱持ち」と問答を交わします。

ここで考えておかなければならないのは、「揉之段」を舞った直面の「三番叟」と、「黒式尉」の面を掛けたこの問答の場面以降の「三番叟」との関係でしょう。

「揉之段」が終わったあと、囃子方はいったん道具を下に置いて「三番叟」が面を掛けるのを待ちます。つまり「揉之段」が終わってから、面を掛けた「三番叟」と「面箱持ち」とが問答を始めるまでは、舞台上はシーンと静まりかえっているのです。このように、能で後見座に役者がクツロいで装束を改める事を「物着」と言い、非常に多くの能の中で見ることができます。そして『羽衣』や『杜若』など女性をシテとする曲目では、シテの「物着」の間は大小鼓と笛によって「物着アシライ」という、非常にゆったりとした演奏が彩りを添えるのに対して、『盛久』や『芦刈』など男性役のシテの「物着」では囃子方は「物着アシライ」を演奏せずに、この「三番叟」のように鼓を下に置いてしまいます(しかし実際には、「物着アシライ」の代わりに、この間に間狂言が語りをするなどして観客の目を「物着」からそらすので、「三番叟」のように観客注視の中で「物着」が行われる事はほとんどありません)。

しかし、ここで注意しなければならないのは、能の「物着」では、それまで「直面だったシテが面を掛ける」という「三番叟」のような例はまったくない、という事です。面を掛ける、または掛け替える、ということは、その登場人物の性格を一変する、つまり別人になる事を意味するのです。

特殊な例では『現在七面』と『大会』で、それまで二重に掛けていた面のうち、外側の面を外す、ということが行われますが、前者は龍女として登場した後シテが、日蓮の法力によって怒りの心を解いて菩薩の姿に変身する、という趣向で、上人の超能力によってシテはまさに「別人」となるのであり、後者はもともと釈迦に化けていた天狗が、帝釈天の怒りに触れてもとの天狗の姿に戻ってしまうわけで、こちらもやはり帝釈の法力によって天狗の神通力が失せて「別人」であった姿が元に戻されるのです。どちらも舞台進行上でハッキリと「別人」になるわけで、面を替える必然性はあり、そしてそれは神通力によって可能となる「変身」なので、どちらの場合もそれを行うシテは超人的な力を持った後シテです。

 【注】付言すれば、上記のうち『現在七面』は太鼓が入った特殊な「物着アシライ」が演奏される中で物着を行い、『大会』の「物着」はツレ帝釈天が登場する「早笛」の囃子の演奏の中で早変わりをします。

また舞台上で面を取り替える例に『道成寺』と『葵上』があります。前者は落とされた鐘の作物の中でシテ自らが着替えるので、これは見所からは見えず、一種の「中入」とも考えられます。『葵上』は唐織を屏風にしてその蔭で面を替えますが、これら2曲に共通するのはどちらも前シテの面を「般若」に替えることで、女性が「怒り」によって蛇身となる、という日本独自の文化通念についても興味が引かれるところですが、とりあえずは、この2曲ともシテは「執心」「生霊」という超人的な性格を持っている事を考えるべきで、その意味では『現在七面』や『大会』と同じようにシテが「変身」する事自体には観客には不自然は感じられないでしょう。

こう考えると、いわゆる複式夢幻能のほとんどの曲の前シテは「化身」であり、それはすでに後シテが超人的な人物である事を意味しています。それは「龍女」や「天狗」「鬼女」といった、人間を遥かに超越した強烈なキャラクターとは少し違うかもしれないけれど、幽霊や草木の精といった個性は、すでにそれだけで超人的。そんな彼らの「中入」は、「化身」である前シテが本性としての後シテに「変身」する(と言うか、本来の姿に戻る)わけで、これまで述べてきた超人的な性格を持ったシテの「物着」と同じような意味を持っていると考えられます。

『盛久』や『芦刈』のように、正装に着替える、という純然たる意味の「物着」もありますが、複式夢幻能の「物着」はそれとは意味が違って、前後のシテが装束を改めるのは「変身」する意味が込められていて、その方法は「中入」であっても「物着」であっても、意味の上で大きな違いがない事が多いように思います。従って、たとえば『井筒』や『胡蝶』のように、本来は中入で装束を改める曲であっても、小書によって「物着」となる曲もあって、この場合はワキが待謡を謡わない事から、「中入」との意味の違いは「化身」から「本性」への変化の時間経過の違い(=「その夜本当の姿で現れた」から「やがて本当の姿で現れた」というように)を表す以上には、戯曲上に大きな意味の差異は起こらないのだと思います。

ちょっと話題がズレてきたようにも思いますが。。(^^;) それでも、能では前述の少数の例外を除いては、「物着」で面を替える事はないのです。「化身」から「本性」への変化であっても、それが同じような役柄、すなわち「里女」から「有常の娘の霊」への変身であれば、装束を替えても面を替える事はほとんど行われません。前後を通して一つの「若女」の面で勤める事で、前後のシテが「別人」ではない事になり、これによってはじめて、前シテが「化身」であった事の意味も生きてくるからです。

まして、前述のように直面から面を掛ける「物着」は能の中には例がありません。「三番叟」の「物着」(?)は、それほど特異な演出だと言えると思います。