ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

研能会初会(その26)

2007-04-01 01:34:09 | 能楽
それでは狂言では舞台上で面を掛ける曲はあるのでしょうか。そして、あるとするならば、どのような意味を持つのでしょうか。

じつは、お狂言では舞台の上で面を掛ける曲はたくさんあるのです。それも能とはだいぶ様子が違っていて、たとえば能では「物着」と言えば通常は後見座にクツロいで行うものですが(そして前述のように能の「物着」で面を掛ける例は絶無なのですが)、同じように後見座にクツロいで、そしてそこで面を掛ける例として『清水』が思いつきます。

『清水』のあらすじは、主に茶の湯の水を清水に汲みに行く事を命じられた太郎冠者が、それを嫌がって、鬼が出たと嘘を言って逃げ帰ったところ、主は秘蔵の桶を失ったのを惜しんで清水に様子を見に行く。困った太郎冠者は鬼に扮して先回りして主を脅して。。というもの。このときシテの太郎冠者は、アドの主が清水に向かう間に後見座にクツロいで武悪の面を掛け、その後も太郎冠者に戻るとき、再び鬼に扮装するとき、と、いずれも後見座で面を掛けたり外したりします。

この場合の「物着?」は、「変身」ではなくて「扮装」するのであって、その中身が太郎冠者であることは変化しないのだから、「三番叟」の「物着」とは大きく意味が異なる、と考えてよいでしょう。

ほかにお狂言で、舞台で面を掛ける曲は。。あとは ぬえが思いつくのは『仏師』と『六地蔵』ぐらいなもの。。勉強不足でお狂言方から怒られてしまいそうですが、ぬえ、じつはあまりお狂言のお舞台をしげしげと拝見した事がなくて。。言い訳がましいですが、お狂言がお舞台を勤められておられる時は、シテ方である ぬえは大概 次の能の準備~シテやツレの装束の着付けなど。。~をしている事が多いのです。

そこで、昨日 とある催しの楽屋でお狂言方の友人に聞いてみました。「舞台で面を掛ける曲って、ほかにどんな曲があったっけ? なかんづく後見座で面を掛けるのは?」。。いつも楽屋で三役の友だちをつかまえてはこんな事を突然聞く ぬえ。さぞかし迷惑だろうなあ。

質問された彼も、急に聞かれて「ええっと。。舞台の上で、なら。。『伯母ヶ酒』、『簸屑』『ぬけから』。。ほかには何があったかなあ。。」と。演出上の分類みたいな事なのに、とっさにこれだけ思いつくんだから彼も立派。『簸屑』は和泉流だけにある曲です。調べたところ、『伯母ヶ酒』は酒を商う伯母に振る舞い酒をするために甥が鬼に扮して脅す、という『清水』に似た趣向の曲で、『簸屑』と『ぬけから』は、どちらも眠り込んだ太郎冠者が悪戯されて武悪の面をかぶせられ、目が覚めて自分が鬼になったと勘違いする曲。『仏師』『六地蔵』は田舎者を詐欺に掛けるために すっぱが仏像になりすます、という曲です。

こう見ると、お狂言では舞台で面を掛ける際には、それはすべて「扮装」ですね。中身の本質が変わるわけではない。やはり「三番叟」の「物着」とは意味が異なるようです。

「三番叟」も一見、一人の役者が直面で「揉之段」を舞ってから、面を掛けて「鈴之段」を舞うように見えるけれど、面を掛けたあとの「三番叟」が「面箱持ち」との問答で「この色の黒い尉が、今日のご祈祷を千秋萬歳目出度いやうに舞ひ納めうずる事はやすう候」と言っているので、この二つの舞を舞う役は「別人」と考えた方がよさそうです。

そして「揉之段」を舞い終えた「三番叟」が無言で後見座にクツロいで静寂の中で黒式尉の面を掛け、そしてその後舞台に再登場すると、まるでたった今初めて登場したかのように「面箱持ち」に対面し、さらに「揉之段」をすでに舞った事への言及もまったく行われないままに「面箱持ち」に舞を所望される。。戯曲としては少々不自然とも思えるこの舞台進行は、かつて「揉之段」と「鈴之段」が二人の別の役者によって分担されて勤められた事を想像させます。

じつは学究の方面ではこの事は早くから指摘されていて、「揉之段」は「鈴之段」の「露払い」的な位置を占めて、(おそらくは)若者によって舞われたのではないか、と考えられています。ちょうど「千歳」と「翁」と呼応する構図で、言うなれば「翁」の中で行われた事が「三番叟」で舞台上に再現されている、とも考えられるのです。