ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

研能会初会(その27)

2007-04-02 00:15:33 | 能楽
「千歳」と「揉之段」、「翁之舞」と「鈴之段」。それぞれまったく異なった印象の舞ではありますが、それらが戯曲。。というか『翁』という「儀式」の中で、それぞれ呼応した存在だ、と捉えられるのは、なんだか不思議。

ここで考えるべきなのは、「三番叟」は「翁」の「モドキ」である、という考え方なのです。これについて ぬえは聞きかじりの事しか書けませんですけれども。。

「モドキ」なんて言うと、なんだか「似非ごと」「マネ」のようにネガティブなイメージを我々はつい思いがちですが、じつは日本では本来「モドキ」というのは決してマイナスなイメージのものではなく、かつ日本文化を特徴づける重要な要素であるらしい。このへん、ぬえも傍証を提出できれば良いんですけれども、たとえば現代に受け継がれている能も、そもそもは興福寺などの寺社で行われていた「翁猿楽」に引き続いて演じられた、物まね芸としての猿楽が発展した、という能の歴史からも「モドキ」の一つの例が窺えるかも知れません。

『翁』はかつては猿楽役者ではなく「年預」と呼ばれる「翁」専門の役者によって演じられていて(奈良では明治維新まで年預が『翁』を勤める習わしだった)、猿楽の役者は長く『翁』を舞う権利を持っていなかったのです。今でも『翁』の事を「能にして能に非ず」と言ったり、番組にも『翁』だけはその前に「能」と但し書きを入れない慣習は、そんな事情から起こっている事なのかもしれません。寺社での祭礼に際して『翁』が神を勧請する儀式であるならば、それに続いて演じられる脇能は「神」の存在を祭礼に集った民衆にビジュアルとして実感させる効果があったにしても、『翁』に比べればはるかに劇的でしょう。脇能に登場する「神」は猿楽役者が扮している、という約束の下に演じられるもの、と言えるかも。

「年預」という神職に近い人々が『翁』という儀式において「翁面」に仮託した「神」、実体の見えない「神」を祭礼の場に勧請し、そのあとに「猿楽役者」が脇能という劇によって、神の存在を民衆にリアルに実感させる。。そんな構図が成り立つとすれば、脇能以下の猿楽そのものが、『翁』の一種の「モドキ」とも捉えられる可能性があります。

神体としての「面」を入れた面箱が、それについての説明がまったくなされないままに荘重に舞台に運び出されて、大夫が「翁面」を依代のように扱う『翁』に我々が感じる、言いようのない神の存在感のようなものと、前場で主に寺社の来歴や神の威光を具体的に描いていったあげくに、後シテで「神」を舞台に登場させる脇能とは対照的。『翁』を前にして、脇能には「劇」を感じるのは ぬえだけでしょうか。

そして能は、脇能に引き続いて修羅能・鬘能。。と「神」を離れて「人間」を描いてゆきます。『翁』~脇能という上演の流れの中で、その場に集った民衆は「神」を身近に感じながら、その威光に守られている、という安心感の中で祭礼を楽しむ事ができる。。言うなれば「モドキ」は実体の見えない「神」を民衆に実感させ、そして次第に一体感を持たせるための「橋」のような仕掛けなのかもしれませんね。

そしてまた、興味深い事実があるのです。これはずっと以前に能面研究家のG氏に聞いたのですが、「三番叟」が掛ける「黒式尉」の面というのは、時代が古いほど、くだけた、一種 滑稽な表情に作られているのだそうです。そして時代が新しい面ほど整った表情になっている。「これはね。三番叟というのはもともと翁のモドキだからなんですよ」。。G氏が語ったその言葉で、そのとき初めて ぬえは「もどき」という考え方がある事を知ったのです。原初の能の姿は、現在では窺うすべもありませんが、当初の能が『翁』の「モドキ」として発展していったとすれば、江戸期以降の式楽化の流れの中で次第に『翁』から「滑稽味」が排されていって、その中で「黒式尉」の面も「式楽」としての品位を求められて表情が洗練されていった。。そして『翁』と能の「モドキ」の関係、そして『翁』の中にも「翁」と「三番叟」という「モドキ」の関係があるとすれば。。「モドキ」の二重構造がある事になります。

そしてまた、『翁』が時代に従って演出面でも洗練されて行ったであろう痕跡は、「三番叟」と「面箱持ち」との問答の内容からも推察できるのです。