健康って、どういうことなんでしょうね。
大辞林では、体や心がすこやかで、悪いところのない・こと。医学では単に病気や虚弱でないというだけでなく、肉体的・精神的・社会的に調和のとれた良い状態にあることをいう。とあります。
うむ、いまいちスカっとしてこれだ!って感じじゃないかなあ。
治るって?どういうことでしょう!
今日、エネルシアさんに声をかけて頂き、「まこと ピアノカフェルーム」にお邪魔させていただきました。
真さんはエネルシアさんの弟ですが、統合失調症の病名がつけられ、医師からは超重度と診断されているとのことで、僕の目からも立ち居振る舞いは普通ではないように映ります。
エネルシアさんが松江に帰ってきて3年、真さんに関わりだしてから劇的に変わったと聞いていますが、真さんを知って半年余、直近でもまた劇的に変わっているかもしれません。
彼が不特定の人前で初めてピアノを弾く今日、特段彼と話してはいませんが、彼のはにかむようで、とても嬉しそうな顔をずっと見ていました。
エネルシアさんは、真に音としてやってくるエネルギーは、Nature Tide と彼が呼んでる感覚!大河のような悠々とした旋律~を奏で、皆さんに珈琲を煎れて、薬草茶を煎じて~彼はしあわせそうでした。と書き綴っていました。
そして、治るって?どういうことでしょう!こんなに人に喜ばれて、自分もしあわせなら 治るも治らないもありません。
何をもって治るというのか!その定義が変わる、まことの存在🔯と続いています。
健康の正しい定義
今読んでいるアンドルー・ワイル著「人はなぜ治るのか」(1988年刊)には、たいがいの辞書には健康を「病気ではないこと」と定義しているが、病気という言葉が「安楽の欠如」というフランス語に由来しているため「健康とは安楽の欠如の欠如」という二重否定形になってしまうと書かれています。
そして、「健康とは何か」という問いに対する得心できる答えを耳にしたことがないと。
この節の最後に、
ほとんどの医師は「病気ではないこと」よりましな、健康の正しい定義を思いつかないのだ。彼らには健康という言葉の語源的意味である<完全>としての<全体>という概念が把握できないし、また、健康と痛いは善と悪との特殊なあらわれであることも、それを理解するには宗教と哲学の助けが、それを巧みに扱うには魔術の技法が必要であることも、わかっていないのだ。
科学や知性は、物質としての現実のメカニズムを細部にわたって明らかにしてくれる-そこでは知識こそが確実な価値である-が、深層に横たわる神秘の解明はできない。健康とは何かが深く胸の奥底で理解できないかぎり、自分の健康や他人の健康を回復させることはできないのだ。とあります。
今日の真さんのピアノカフェにお邪魔し、僕がこの本を持っていて、今この健康を論じているところを読んでいる、とても不思議な気がしました。
人の全体って、善も悪も包含されていますし、神や仏~絶対調和もすべてを包含しています。
それがどう表れるのか、表すのか、それは、自分にとって、人にとってどうなのか、社会的には調和が取れていない、良くないと思われても、実は違うのかもしれませんね。
ちょっと回りくどかったかもしれませんが、私たちの常識を少し角度を変えて見ると、全く違ったものが見え、否定していたものが、実は、とてもありがたいことなのかもしれませんね。