「おれさまは偉いんだぞおおおお」土竜(もぐら)のもっくんは自分に「さま」まで高く上げ靴を履かせて威張ってみました。せっかく日の当たる地上に出て来たというのに、誰も、しかし、居ません。聞いている人はいません。虫もいません。これでいいのです。ときどき威張ってみたいだけなのです。日頃、自分はちいとも偉くなっていないという負い目があるので、それのストレスが来ていて、これを霽らしているのです。爆発させています。もっくんはまったくこどもじみています。しょうがないのです。みんな偉くなりたいのです。偉くなって威張り散らしてみたいのです。神さまと競争して渡り合ったら、そんな偉さなんて棒にも箸にも掛からないことぐらいは分かっていてそうしているのです。無論、神さまが競争の相手になられるわけはありません。でもそれを蔑んでもおられません。事情は分かっておられるのですから。もっくんは長い地下生活者だから、目が開いていません。いつのまにかそうなってしまったのです。だから、こころの中だけしか見えていません。外部は見えていません。こころを豊かにするだけでよかったのですが、これがなかなか難しいのでした。こころを豊かにすることが威張ることになってしまうのです。偉くなりたいなりたいがそうしてしまうのです。ほんとうは違います。ほんとうはいまがもっとも豊かな頂点にいるのです。なんにもしないでそうなのです。何かをしたら偉くなるということではないのです。初めから偉いのです。これ以上偉くなれないという位、偉いのです。互い互いにそれぞれ最高の姿をして最高の暮らし方をしているのです。それを受け入れて安んじているだけでいいのですが、魔が入るのです。「嘘だぞ」「思い込みに過ぎないぞ」「お前がお前を偉いと思っているのは、それはまやかしだぞ。自己欺瞞だぞ」という魔が入るのです。これに抵抗が出来ないのです。彼は偉くなっていられなくなります。それでことさらに威張らなくてはならなくなるのです。もっくんはしばらく春のそよ風に吹かれていました。それからまた暗い穴蔵の中へと潜り込んでいきました。ストレスは解消したようです。最後に鼻を片手を使ってちんと鳴らしました。潜り込んでいく前に、両足の踵を立てたり軽くジャンプしたりもしました。
鰹菜(かつおな)の菜の花がすんすん伸びてそよ風に吹かれている。いい気持ちそうだ。菜の花ってどれも黄色だけど、それ、どうしてなのかなあ? 大根の花は白なのに。黄色は黄金の色。地上をこがねいろに染め上げたら、その分、地上が豊かになるってみんなして考えたんだろうか。こがねいろは祝福の色。こがねいろは眩(まばゆ)いいろ。さぶろうの家の裏手はちょっと段がついている。他所さまの畑の境目になっている。そこの土手沿いに菜の花が盛りだ。ずらりみっしり夥しく生えて、豊かな黄金に映えている。これは鰹菜ではない。なんだか知らない。そうだったんだ、みんながさぶろうを祝福していたんだ。この世に生まれてきたことを祝ってくれていたんだ。これをさっきの「どうしてなのかなあ?」の答えにしよう。ほんとうは大好きな虫さんたちを喜ばせるための精一杯の工夫だったんだろうけど。横取りだ。さぶろうはちゃっかりしてらあ。
おはようさん。何にでも「さん」をつける。日常の挨拶言葉にも。それでやんわり柔らかにする。刺々しい世の中を歩くときの靴にする。
はっきりした姿を持たず、目に見えていないものにも。抽象概念にも。それで親近感を保とうとする。そこにあるものは何でも味方につけようとする。見えているもにはなおさら。でもそれって、悪いことじゃないよね。
おはようさん、花虻さん。ぶんぶんさん、菜の花さん。ほのぼのさん、春霞さん。ぼんやりさん。幼児語はものごとを優しくふんわり包み込むのに適している。
剥き出しにしないでオブラートで包んでやる。突き出た骨だけにしないで肉付けをしてやる。言葉で。言葉の発する音で。「さん」は刺々(とげとげ)しくしない役割をする。
「おれは怒っているぞお」と人を脅しつけない。「おれが正義なんだぞお」と肩を怒らせない。「おまえなんか喰ってしまうぞお」なんて大口を開けて凄味をきかさない。その方がいい。裁き手の検察官、裁判官のように尖(とんが)らない。
「さん」は天麩羅の衣である。おはようさん。気の小さい人間が今朝の小さな幸福と小さな安寧に小さな声を掛けている。目の前の鉢植え西洋ポピーが首を振って応えている。
対で、つまり一対一で、神様と会話をしていたい。目を大きく見開いて。首で大きく大きく肯いて。
そろそろ帰るときが迫っている。月へ帰る間際のかぐや姫の心境に近くなって来ている。人間界のゴタゴタに振り回されてばかりはもういい。ゴタゴタに振り回されるためにここを訪れて来たのではない。ここを卒業をしたい。ゴタゴタの繰り返し繰り返しには飽きが来たようだ。
そろそろ人生の終局の場面に移る。歪みを元に戻したその元の位置に立ちたい。後はずっと夜空に煌めく明るい星々を、それに劣らぬくらいの明るい好奇の目で眺めていたい。
対で、つまり一対一で、神様と会話が成立できるようにして暮らしたい。目を大きく、天の窓のように見開いて。首で大きく大きく肯いて。説かれる一つ一つの説諭を全肯定して、深く肯いて。雑念の巣窟の己を、無にして。
呼吸をおいしく吸いたい。入る息出る息をひたすらおいしくいただいて、楽しんで。
ふっふっふ。姿形はすっかりもっかり立派なおじいちゃんなのに、そのハートたるやまだ幼い少年である。未成熟も未成熟。70年を生きて未成熟。てんで成長がない。生まれ立てたまんまだ。ハートには、この少年がいる。若い。若い若い若い。ハートは少年の遊びの空間。宇宙と同じくらいに膨れあがったり、繭の大きさに縮んだりしている。
ふふふふ。成熟なんてしなくてよかったんだ。あれはバーチャルだったんだ。虚像に過ぎなかったんだ。虚栄に過ぎなかったんだ。あどけないまんまでいてよかったんだ。それをそうとしないで、逸る馬の競走馬のように、急かされて来た。オトナになれ、一人前のオトナになれ、しっかりしたオトナになれ、一日も早く老成しろとかき立てられてきた。
でもそうしなくてもよかったんだ。瞞しにあっていたんだ。こどものままの目をしていてよかったんだ。瞞しに乗ったのはこの自分だった。あどけないままで世界を見ていてよかったんだ。そういう童話世界、メルヘンチック真如界に住んでいてもよかったんだ。
お爺さんはそう思うようになった。自己変形することにうつつを抜かして、結局は歪みきったお爺さんになって、そこまで辿って来て、そこではたとそう思うようになった。遅いよ。遅いよ。遅いよ。神様と会話が成立できる純真無垢な少年のわたし。澄んだ青空のような瞳をしたわたし自身。それが慕わしくなっている。
おはようさん。誰彼なしのおはようさん。ということは? 返事を返してくれる全員へのおはようさん、ということになるのかな。軽く投げキッスしてウインクして、おはようさんを返してくれる人が、ひょっとしたら、いてくれるかもしれない。いてくれることにしよう。その方が楽しい。
人間にはハートがある。ハートには愛情というものがいっぱい詰まっている。気体なのに、素早い活動がお手のものだ。これは遣り取りができる。こころのブーメランだ。こちらのそれを届けると、相手のそれを乗せて戻って来る。あるいは可愛い光の天使たちかもしれない。誰もがそうした存在を住まわせている。
そろそろ夜明け。6時が間近。昨日はチンゲンサイの幼い菜の花を摘んだ。種蒔きが遅かったので、まだ十分に育ち上がっていない。小さい。小さいのに、春に素早く反応している。おませに見える。おひたしにしたらおいしそうなので、花籠いっぱい摘んできてしまった。菜の花の部分だけ。今朝のお味噌汁の菜にしてもらえるかもしれない。