今夜は🌕である。外に出て行って打ち仰いだ。雲はなく、ひとり冲天高く輝いていた。白い銀の満月。満ちた月は美しく映った。
大きな伊予柑を丸々一人で食べ尽くしてしまいました。ほんのり甘くてジューシーでした、とっても。
16時になりました。さて、日の当たる場所に干し網をぶら下げて切り干し大根を干していましたが、日が翳って来たようです。
外に出て片付けしてきます。これがわたしの仕事、ノルマです。干して片付けてまた干して片付けている内に出来上がります。
太陽の光を吸っている大根カンコロは匂いが強くなっています。だいぶ離れたところにまで匂いが流れて来ています。
大陽さんって凄いなあ。あらためて言いますね。いややっぱり凄いなあ。健全で健康で明るくて癒やし系で、ほんのりしててあたたかくて、凄いなあ。
16)
ならばどうするか。はいはいはいと受けて信じてしまう、しかない。そうであるなら、嬉しいと思ってしまうしかない。思い込んでしまうしかない。
17)
危ない危ない。でも、もともとが危ないところにいるのである。
18)
でも、わたしは大いなる力によって生かされて来たと思っている。無知蒙昧で反発ばかりしながら背き背きを繰り返しながら、それでもお慈悲を頂いて来た、それは不変だ。それを無視するわけには行かない。それにはしっかりお礼を述べねばならない、そう思う。
19)
お礼の言葉は、おんまかきゃろにきゃそばふぁ。
20)
仏と出遭う際の合い言葉、呪文である。この呪文を発すると仏界の扉が開いてくる。
11)
彼らは人間に分かり易い言葉にしてこれを伝え、説明を尽くし、伝授しようと図る。人間が興味を抱いてこれに反応を示して来なければならないからである。あまりに俗っぽくなってしまうとこれまたそっぽを向かれてしまいかねない。
12)
ここで経典が出来上がる。今日は十一面観世音菩薩が登場してその説明を引き受けている。仏説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経という経典にはこう書いてある。
13)
「我に神呪あり。若し衆生ありて受持することあらば、一切の病患憂苦(びょうげんゆうく)を除却し、一切の悪業煩悩を消除す。身口意(しんくい)業(ごう)をしてみな清浄ならしめて、心中百千万億等の事、成就せざることなからしめん。我が此の神呪は大神験(だいじんけん)あり。一切の諸仏の護念したまふ」
14)
効能書きが列べてある。列べすぎじゃないかと思うくらいだ。曰く、病気をしなくなる。曰く、憂いも苦しみもなくなる。曰く、悪業が消える。曰く、こころで思ったことは何でもみな成就する。などなどなど。
15)
長くなった。さて、結論を急ぐことにしよう。仏は完成者である。完成からほど遠いわたしに、完成者の理論が分かるはずはない。
6)
この力は目に見えないものであるからなんとも伝えようがない。だから、意味不明な神授にするしかないのである。神の言葉、仏界の言葉であるから、もともと意味不明である。いや、われわれの微力では把握なんかできっこないのである。
7)
みんな嘘に聞こえてしまうことだってある。てんで認めようとしないこともある。それが大方かも知れない。
8)
段階1の高さに留まっている者には、段階1千万兆の高さにある真如界・智慧界・慈悲界のことはまるで理解不能である。
9)
理解不能な者にも、しかし、仏は仏の智慧や慈悲を伝えなければならない。そして守らねばならない。導かねばならない。そうでなければ仏とは言えないのである。
10)
彼らはだからそこで大いに苦悩することになる。どうやってこれを伝えて行けばいいかと言うことについて苦悩する。
1)おんまかきゃろにきゃそばふぁ。
これは十一面観世音菩薩の神呪である。
神呪は真言、マントラともいう。
2)
密教の説くところでは、こころが発する誠実の言葉には不思議な威力がこもっている、としている。ましてそれが菩薩や如来の言葉であればいやさらに、神力やパワーやエネルギーが籠もっているにちがいない。
3)
神呪は仏界の意思の伝達手段である。法の意思、宇宙の意思を伝えて来る。そしてそれをわれわれにも授けようとする。
4)
仏界と交わりたいと願う人もいるが、交わらないとしている人もいる。どちらにも等しく神授は働いてくるが、それをそうだと思うか思わないかだけである。我々は常に大きな力、大きな法則の中に暮らしている。それを思うとお礼の一つも宣べたくなる。
5)
わたしはうすうすそれを感じている者であるから、その力に与(あずか)っていることにうすうすお礼を述べている。それとは、目には見えないが確実にわたしにも働いてくる偉大な力のことである。わたしを守ろうとする力、わたしを導いている力のことである。
庭先の土を割ってクロッカスが花を着けている。紫の。嬉しい。そこへしゃがんで眺めた。春の光が溢れていた。
そんなことはないのだけど、なんだかわたしに挨拶をするために花が咲いたのではないか。などと思った。わたしを元気づけるために此処へ歩いて来て、明るく咲いているのではないか、などとも思った。
花の心があるような気がした。だったら、こころを受け止めてあげるべきなのではないか。早春の一日、一人でそんな邪推もして遊んだ。