今日はお昼に歩いた。日の隈山の登山口まで歩いた。せっかくここまで来たのだから、登ったらいいのに、そうはせず、そこで、Uターンして戻ってきた。杖をついて歩いているとどうしてもその分、体の中心を捻っているらしく、負担が腰骨にあつまってしまうのである。しばらく歩くと痛み出す。無理はしないでおいた。帰り道の畦道に西洋タンポポが咲いているのが目に付いた。一つ見つけると次々と見付かった。なかにはもう綿帽子をこしらえているのもあった。飛び立とうとしている姿がいかにも軽やかであった。
失った、そこのところで、実は得ている。だから、持ち替えただけなのである。失うということはなない。そういうことは起こらない。有を失って、そこですかさず、無を得ている。無を払うとそこに有が陣取っている。第一の力が弱るとみると、即妙にして、第二の力が宿っている。だから、無所有を恐れることはないのである。手の平はいついかなる時も、何かを掴んでいる。時々に手の平の品が変わるけれども、それがその人にとって最高最良の品なのである。心配は要らない。
仏陀が、仏道を歩く行者に心配をさせるようなことをお与えになるはずはない。心配に見えてしようがないときでも、それは心配に当たることではないのである。行者はそこを見ていることができる。信頼を見失わないでいることができるのである。
21)
この世のすべてには秩序があり調和があり、仏智があり慈悲があり、どこまでもどこまでも守られ支えられ導かれている。
22)
だからこの世にいる間はこの世の生き方に安住していていいし、安心をしていていい。
23)
生死事大と言うけれど、先を憂うることはない。
24)
ただし、これはわたしの見解である。
17)
われわれも越えて超えて行く。ここが限界だと思い込んでいたところを難なく超えて行く。
18)
われわれはいのちの旅をしている。壮大、長大な旅をしている。あっと驚くことばかりである。
19)
行き先行き先でそれを楽しめることになりそうである。あっと驚くことを楽しめるだろう。
20)
いまはすべてが未知数だから、その理解を得なくても大丈夫である。
13)
宇宙空間は広大なのである。無限のバリエイションを繰り返しているのである。どんなことがあっていても、不思議ではない。
14)
物質界の住人のわれわれが、いったんその形を失えばそのあとには世界は消滅しているなどという固定観念に縛られることもないだろう。
15)
どのみち自由無碍であって、思いの内外(うちそと)に遊んでいてもいいところなのだ。
16)
生死不可思議。どんなことがあっていても、不思議ではないのである。われわれの不思議の予想くらいはすぐに超える。
9)
形を持たなくなると、第一、病気がない。老いがない。死を恐怖することもない。死はかりそめだ、仮の姿だということを理解できているからだ。
10)
ただし、セックスの楽しみもない。セックスしなければ誕生できないということもないからだ。
11)
恋愛の楽しみは残っている。相手への愛情はずっと深まっているからだ。ずっとずっと桁違いに高く深くなっている。
12)
瞑想している内に、そういうことをイメージしてみた。あくまでも我が空想の域の内側であって、証明などは出来ない。
5)
でも、形を為している場合にはどうしても、そうでない生き方を否定して掛かってしまう。見えてないからしようがないところがあるけれど。
6)
でも、見えてないからといって、生きていないということにはならない。でも、頑迷固陋な頭では、形を持たず目に見えないものは否定されてしまう。証拠証明に困るからだろう。
7)
でもまた、その逆に、形を為さずに生きている場合には、何故形を為さねばならないかが理解できなくなることもある。
8)
まあ、それはそれでいいのだけれど。双方、生き方の違いなんだから。
1)
形を為して生きるという生き方と形を為さずして生きるという生き方とがある。
2)
形を為した場合には、それはそれで長所と短所とを併せ持つ。形を為さざる場合も同様である。長所があり短所がある。
3)
だからそれぞれはそれぞれの長所を選び取って適合を図っている。形と影を有しているか、有していないか、どっちもどっちで、どっちか一方でなければならない、それでは生きていることにならないということもない。
4)
退屈になればしばらく交互に入れ替わることもできる。あんまり一つの生き方に拘らなければ、それはそれで悠長で気が楽なのである。