<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

法華経をいじろうとは思わない

2017年03月25日 18時10分04秒 | Weblog

若し無量百千万億の衆生有りて、諸々の苦悩を受けんに、是の観世音菩薩(のみ名)を聞いて、一心にそのみ名を称(とな)うれば、観世音菩薩は、即時に其の音声を観じて、皆解脱を得せしむなり。

若し時に観世音菩薩のみ名を有(たも)つ者あらば、設(たと)い大火に入るとも、火も焼くこと能(あた)わず。是の菩薩の威神力に由(よ)るが故に。

(「妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十五」より)

この世には数えることも出来ないらいたくさんの人が、その生命をまっとうしようとして生きている。しかしみな多くの苦悩に喘ぎ苦しんでいる。仏はそれを放置されることはないので、仏は仏の救済を実践する者として観世音菩薩をこの世に遣わされた。この観世音菩薩の名を称えせしむるためである。だからもしもこの観世音菩薩の名を一心に称えて呼ぶ者があれば、即時にその人の呼び声を慈悲のこころに観じて、その苦しみを解き放たれるのである。もしも観世音菩薩の名を称え続ける者があれば、たとえ大火の中に入ることがあっても、その火すらその人を焼くことは出来ないのだ。それほどの神(すぐ)れた威力を発揮される菩薩なのである。(さぶろうの意訳 正確ではない)

***

さぶろうは今生で法華経に遭ったことを大切に考えている。仏陀に出遭えたような感動を覚えている。そしてそれが永続している。確信に近くなっている。

法華経をいじろうとは思わない。いじくろうとは思わない。できれば鵜呑みにしたい。呑み込んで牛の胃袋のようにそこで何度も反芻を繰り返していたい。いいとか悪いとは判断はできない。それだけの判断力はない。ないことを知っている。だから、これは直感といってもいい。これを信仰するという直感である。危ない危ない。でも、仏陀を怪しんではいない。従う気持ちで居る。だから、人にも強制することは無論無い。伝道の実践は、だからできない。

これは法華経の中の1品。観世音菩薩普門品。観世音菩薩は仏陀の救済事業の実践者である。強力な実践者である。この菩薩の身近にさぶろうが居ると思うだけで心強くなる。

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威神力は救済力の強さの表徴

2017年03月25日 18時10分04秒 | Weblog

若し無量百千万億の衆生有りて、諸々の苦悩を受けんに、是の観世音菩薩(のみ名)を聞いて、一心にそのみ名を称(とな)うれば、観世音菩薩は、即時に其の音声を観じて、皆解脱を得せしむなり。

若し時に観世音菩薩のみ名を有(たも)つ者あらば、設(たと)い大火に入るとも、火も焼くこと能(あた)わず。是の菩薩の威神力に由(よ)るが故に。

(「妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十五」より)

この世には数えることも出来ないらいたくさんの人が、その生命をまっとうしようとして生きている。しかしみな多くの苦悩に喘ぎ苦しんでいる。仏はそれを放置されることはないので、仏は仏の救済を実践する者として観世音菩薩をこの世に遣わされた。この観世音菩薩の名を称えせしむるためである。だからもしもこの観世音菩薩の名を一心に称えて呼ぶ者があれば、即時にその人の呼び声を慈悲のこころに観じて、その苦しみを解き放たれるのである。もしも観世音菩薩の名を称え続ける者があれば、たとえ大火の中に入ることがあっても、その火すらその人を焼くことは出来ないのだ。それほどの神(すぐ)れた威力を発揮される菩薩なのである。(さぶろうの意訳 =正確ではない)

***

今日はさぶろうの誕生日である。7時頃に生まれたらしい。父が台湾総督府の役人だったので、さぶろうは台北市の生まれである。昭和20年3月。戦争も雲行きが怪しくなっている。爆撃音が鳴り響く中で産声を上げたらしい。押し入れの中で。幼児期はずっと病弱だったらしい。引き揚げ船が21年3月にキールンの港を出港して和歌山湊に着いたようだ。船中腹を下して襁褓が足りずに困ったらしい。長くは生きられまいと心配したらしい。そのさぶろうがそれから長く長く生きた。72才になった。

法華経の中の一つ、観音経の始まりの部分を今日は引いてきて、自らで再認識をしている。観世音菩薩の威神力をいただいてきたおかげで、今日を迎えることができたのだと思う。有難く思う。

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ストレスだって消えてしまう

2017年03月25日 17時12分50秒 | Weblog

ミヤコワスレが咲き出した。薄紫色の。清楚で、上品である。大好きな花なので、若い頃から長く長く大事に育てている。まだ花茎が短い。この花は日陰を好む。日当たりだと枯れてしまう。家の北側の軒下に3列ずらりと植えている。秋口に株分けをして植え替えておいた。施肥もしていたので根株も張って力強くなっている。ここにすかさず雑草が侵入してきて我が物顔をしている。覆い隠してしまうほどに。それで午後から草取りを開始した。移動椅子を移動させながら。座ってゆっくりゆっくり。風が吹いて鼻水が垂れた。クシャミが出ると益々鼻水の量が増えた。人が見ていないから構うことはないのだが、いかにもだらしなく子供っぽかった。根株を上げて株分けした後、陶器の鉢にも植えて育てている。欲しい人があれば、どうぞどうぞでお分けしている。4時で切り上げた。ほぼ完了した。好きなことをしているとストレスだって消えてしまうから不思議だ。

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することがない

2017年03月25日 13時41分13秒 | Weblog

することがない。草取りをしている。俺はどうしてこうも暇人なのだ? 外に出る。と、あちこちやたら勢いよく伸びてきた草が目に入る。それで、そこに座って手を動かす。日が差して、暑くなって、帽子の下の禿げ頭から湯気が出ている。尻のポケットからタオルを引き抜いてごしごし汗を拭う。春のそよ風がひゅぅいと吹いてくる。芍薬の真っ赤な発芽。こちらには優しい声を掛ける。草には掛けない。差別だ。この年になってもこれっくらいの成長度合いか? 自問する。

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土筆には腸(はらわた)がない

2017年03月25日 10時44分36秒 | Weblog

裏の畑に土筆がずらり。ここらではそれを評して「ぞくまんだち」と言う。摘んでお浸し、甘煮にしようか。卵とじにしようか。

ところで、ここで疑問。

昨日買ってきた鰯には腸(はらわた じごろ)があった。裂いてこれを捨て、塩焼きとした。(腸付きでうまいらしいが) 

土筆にははらわたがない。それは何故か? どちらがより進化しているか? 

土筆ははらわた無しである。肛門もない。よって大便もしない。消化酵素も必要がない。心臓、肝臓、腎臓、膵臓、脾臓もない。

人間にもはらわたがある。口がある。肛門がある。喰うからこれを消化しなければならない。消化し終えたら排便しなければならない。複雑だ。こうしてこうしてこうしてエネルギーが醸成される。それで生命になっている。

土筆は単純だ。茎と根と葉と花があって、はらわたがない。光と空気と水と土の栄養分と季節季節の適度な温度があればいい。余計なものなしというわけか。これで彼らなりの生涯を楽しめるというわけか。

 

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此処は歓喜地 即今歓喜 その5

2017年03月25日 10時42分00秒 | Weblog

7)

青蛙曰く、「無なり」。曰く、「空なり」。「黒白(こくびゃく)なし」。「すべて耳目の好き勝手に任されたるのみ」。今日はいくばく寒さが戻っている。彼は僅かに震えている。南無三。南無三宝。しまった、啓蟄の狂い。穴を出るのが2日早かった。

8)

気象庁の発表では、桜の開花宣言は二日遅れて28日の予想となったようだ。それでも此処は歓喜地。即今を歓喜するより他なし。土手に黄金。菜の花満ちる。

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此処は歓喜地 即今歓喜 その4

2017年03月25日 10時37分10秒 | Weblog

6)

昨日草取りをしていたら早くも小さな青蛙が、掴んだ草の茂みから飛び出してきた。土の中の暮らしが長かったためであろう、青ざめてこころなし透明に見えた。爾はそも如何? 冬籠もりの土を出でてみて、果たして歓喜地を証明することはできたか? 安楽を生じているか? 此処は歓喜地であるか。即今を歓喜しているか。

 

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此処は歓喜地 即今歓喜 その3

2017年03月25日 10時34分44秒 | Weblog

5)

此処は歓喜地(かんぎち)であるか。此処は非歓喜地であるか。己は歓喜地に誕生したはずである。歓喜して一生を過ごすことが出来るようさまざまな条件をすべて十全に満たしてもらっているはずである。あとはそれを己の目で見て己のこころが判断して、身心の暮らしがこれを証明してみせるだけである。

 

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此処は歓喜地 即今歓喜 その2

2017年03月25日 10時31分52秒 | Weblog

3)

さて、ではここがその歓喜地であるかどうか。あなたはどう見るか。此処をどう見るか。値しないと見るか値すると見るか。わたしはどう見るか。わたしの此処をどう見るか。歓喜することのできる条件を満たしたところであると見るか。十分に満たしていると見るか。

4)

庭の東の隅にハクモクレンが瓦屋根の高さを超えて咲いている。葉はつけていない。花だけが先行している。地上を祝福するための役割を担っているのでおのずからで満面笑みを湛えている。僕はこれを仰いで眺めている。光の水脈に乗って馥郁たる香が流れて来る。ここに立ち尽くす。僕の頭脳に快感ホルモンのエンドロフィンが滲みだしている。僕は深い息をして安らぐ。僕は後先なしのただ今此処を楽しんで足りる。

 

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此処は歓喜地であるか 即今を歓喜しているか その1

2017年03月25日 09時51分26秒 | Weblog

1)

証歓喜地生安楽。しょうかんぎち しょうあんらく。

歓喜の地を証すれば、安楽を生ぜん。

2)

ここが歓喜をしてもいいところだということを実体験することが出来れば、あなたはそこで忽ち安楽の境地に至りうるであろう。

 

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