<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

画家は絵で文を書き、詩人は文章で絵を描く

2017年08月05日 17時51分50秒 | Weblog

画家は絵で文章を書き、詩人歌人俳人は文章で絵を描く。どちらも心中に訴えたいことが生まれてそれが膨らんで、彼等からの脱出をこころみる。これが神がかったように見えてしまう。周囲にいる人には。この点では共通している。

絵心に欠けるさぶろうは、眼前の自然の風景の中に佇むことで満足を謀る。こうして風景が吐き出すエネルギーを我がうちに取り入れる。すでにそこに創造されたものなので、手心を加える作業は不要となる。芸術家は他者思いなので、この上にまた丁寧に文章を書き絵を描いて、つぶさに提示してくれる。有り難い話だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

へのへのもへの わたしはだあれ

2017年08月05日 15時19分33秒 | Weblog

へのへのもへの。わたしはだあれ。これで人の顔の漫画が書けたっけ。昔よく落書きがしてあった。放課後の運動場にもあった。今は見ない。ちっとも見ない。時代が移ったんだなあ。だよねぇ。落書きそのものがない。いいことかもしれないが、なんだか面白みもなくなったような。小学校の机だって傷だらけだった。木製だったし。みな鉛筆箱には小刀が入っていた。こもでごしごし彫り上げたものだ。今は小刀も持ってはいない。机も木製ではない。遊び心は欠かせないもの。へのへのもへの。わたしはだあれ。それを今大きく書きたくなった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暇男ははたと考え込んでしまう

2017年08月05日 12時47分08秒 | Weblog

暇男である。ぶらりぶらりしている。カラスウリのようである。午前中は我慢して家の中に潜んでいたが、午後になってぶらり。外へ出た。カツ丼の店へ来た。喰った。腹一杯になった。さあてこれから何をしよう? することのない暇男は、はたと考え込んでしまう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時折「目覚めたわたし」に戻ってみたくなる

2017年08月05日 08時38分37秒 | Weblog

肉体がわたしか わたしは肉体か もしもそうなら「わたし」がいない     薬王華蔵

肉体を蔑視するのではない。肉体なしのわたしはあり得ない。そういう存在は不可能である。ではわたしは肉体なのか。肉体がわたしのすべてなのか。すべてではあるまい。わたしは肉体に所有されているが、支配されてはいないはずだ。わたしは肉体に隷属してはいない。わたしがわたしの王者である。わたしが肉体をリードしているはずである。

だが実態はいつも肉体にリードされている。肉体が性の欲望へ走るとわたしはたちまち泡になる。肉体が腹を空かす。肉体が睡魔に襲われる。肉体の充足がわたしの充足に置き換わる。肉体が病めばわたしが病んでいる。肉体が老いるとわたしが老いている。肉体が死滅するとわたしが死滅している。

とすればわたしは彼の意のままだということになる。なすがままさされるがままということになる。だったら、やはり生きているのは肉体なのか。わたしはそこにいないのか。わたしと肉体は重なり合っていたのではなかったか。いつから肉体がわたしの権限を握ってしまうようになったのか。肉体は物質である。物質に拠らなければ、わたしはここ、物質界を生きることは出来なかった。

だから、彼の援助を仰いだのだった。それがいつの間にか主客転倒してわたしのすべては肉体のすべてと変わり果ててしまうようになった。わたしは主権の回復を主張する。肉体の欲望のなすがままにわたしが翻弄されることは慎むべきだ。なぜなら、わたしは非物質界を本拠地としている存在なのだから。わたしはここ物質界に出張をしてきてここでここでしかできない勉学に励んでいるが、物質界の流儀に埋没してしまう必要はさらさらないのだ。わたしがわたしの生き死にの実権を握っているべきなのだ。

わたしはここで何を学び得たのだろう。ここで進化と向上を果たし得ただろうか。ここ物質界において、物質である肉体の支配に支配されているのは仕方がないとして、そこからその向こうを見詰めていたはずである。その初めにおいて、真実界を見据えていたはずである。自己究明を目指していたはずである。それを忘れてはいけない。そう自戒する。彼はあくまでセーリングヨットである。海に漂うわたしを拾い上げて真実界の彼岸へ渡らせようとするセーリングヨットのはずである。

蝉が鳴いている。もうワシワシ蝉が鳴いている。台風5号が九州へ接近しようとしている。そよろそよろと風が吹き始めた。でもまあ、今のところは静寂である。わたしは、時折でいいから「目覚めたわたし」に戻って来たいと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そこがぽっかりと明るかった

2017年08月05日 08時17分32秒 | Weblog

「ぽっかりと明るい」            山鳩暮風

生きている世の中はよろず
そらごとたわごとである
そんなふうにも見えるけれど
では
薔薇が咲いているのは
そらごとだろうか

薔薇に蝶がとまっているが
それもそらごとだろうか
晩冬の淡い光が
そこに僅かに差し込んでいる
では
それもそらごとだろうか

そこを
逃れてきた蝶なのではないか
それを覆した薔薇の上に
やすらいでいるのではないか
差し込んでいる淡い光が
その小さな真実の窓を
包み込んでいるのではないか
しっかりと

庭の風景の静寂とわたしと
ふたつがひとつになって
しばらくぽっかりと明るい

***

佐賀新聞読者文芸の発表の日、昨日は。この作品が小松選で1席になっていた。久々の一席で嬉しかった。できるだけ平易に書こうと思った。平易な言葉遣いで。それで詩になるかどうか。不安だった。結びが出来の良し悪しを左右することが多い。結びの節が落ち着いているかどうか。それが鍵を握っているかもしれない。読み直してみた。この締め括りで今日のわたしも落ち着けた。作品の良し悪しは分からない。100人居れば100人のそれぞれ違う評価が出るだろう。それはそれでいい。

そらごとたわごと、まことあることなし。宗教者の目はそう見ている。そこを逃れて来ているもの、覆しているものとして、蝶と薔薇を配置してみた。そこに真実の窓をそっと両手で押し開けてみた。そしたらそこの空間とそこに来て遊んでいるわたしがぽっかり明るかったのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする