<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

死にそうな人に恐がらなくともいいと言う 3

2017年08月14日 09時30分30秒 | Weblog

死は人がすることではない。仏さまの管轄である。宇宙法・ダンマの管轄である。人は死なない。人は自力では死を扱えない。死なされるだけである。仏に依って死が完遂される。それに南無する。それに帰命する。託生する。すると新しい自分に変身して行くのである。それを仏陀の国に進んで自覚するのである。良い方へ良い方へと進んで来たことを知るのである。それまでは不安である。途中を恐がるしかないのである。

死にそうな人に恐がらなくともいいと言う。これで仏教のすべてかもしれない。人はいつも死に直面して、死にそうなのだ。一刻一刻死にそうなのだ。でも。「恐がらなくてもいい」と言い聞かせて上げる。彼は右手右足に死をぶらさげながら、残りの左手左足で生を見届けて行く。人生を完了する。死を以て生が完了するのだ。あがなわれるのだ。補償されるのだ。続きは仏陀に委任されるのだ。にんげんとしての一生涯では終わってはいないことを次にステップで知ることになるのだ。

(ここまで考えて来た。十分言いきってはいない。ストーリーの続きは残されている。ここまではあくまでさぶろうの自己推論である)

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死にそうな人があれば行って恐がらなくともいいと言う 2

2017年08月14日 09時28分12秒 | Weblog

彼は<自分が仏さまからそうされている身>だということに感激感涙した人間である。仏さまが<自分一人を守ろうとしている>こと<助けようとしている>こと<導き通そうとしている>ことを熟知している。それで安心もしている。仏さまが世界人類のために、ありとあらゆる生き物のために縦横無尽の活躍をしていることを<見ている>人間である。それを見た彼は感恩に噎んでいるのだ。できるかぎりのことをしなくては仏さまに申し訳がないのだ。じっとしていられないのだ。行くしかないのだ、ともかく。彼は東奔西走する。彼は疲労する。憔悴する。身の程を知らない者となる。仏様の要求以上をしようと力んでいるが、そんな要求をなさるわけはない。

死にそうな人があれば行って恐がらなくともいいと言う。これは本来、仏陀の仕事である。仏陀にしかやれないことである。それを人間の賢治がやろうとするのである。もちろん仏陀の話をするのだろう。死にそうになっている人の処へ行って、仏陀の話をするのだろう。仏陀が死を解決した話をして聞かせるのだろう。僧のやるのもこの布教活動である。「恐がらなくともいい」と言い切れるのは、しかし、仏さまのお仕事である。だから布教活動をする人は仏の分身、化身仏、化仏(けぶつ)でなければならない。崇高な仕事だ。(だから、仏法僧はセットになって切り離せないのだ。)此を聞くと死者は安らかになれるのである。「死の解決」とはではどんなことだったのか。それを死にそうな人に即座に伝えきるのは至難だろう。

 

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死にそうな人があれば恐がらなくてもいいと言う その1

2017年08月14日 08時32分13秒 | Weblog

・・・東に病気のこどもあれば行って看病してやり/西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負ひ/南に死にそうな人あれば行って恐がらなくともいいと言ひ/北に喧嘩や訴訟があればつまらないから止めろと言ひ・・・   宮沢賢治「雨にも負けず」より (原文は平仮名は片仮名にしてある。また分かり易いようにところどころ漢字に改めた)

宮沢賢治はじっとしていられなくなった。東西南北に出て行く。そんなに縦横無尽の活躍は出来ない。だから、おろおろするばかりで、みんなからは木偶の坊扱いされる。それでも彼の信奉する法華経は実践を説いている。頭でっかちでは駄目なのである。困った人々がいたら助けねばならないのである。そう説いてある。「悟って山中に籠もっている」わけにはいかないのだ。仏の教えを聞き流してはいられないのだ。

 

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テーブルの周囲四方に椅子が8個

2017年08月14日 08時15分34秒 | Weblog

今日は薄曇り。雨になるやもしれぬ。朝になったので夕顔が萎んで、赤紫の朝顔が開いた。お盆の中日。月曜日。静寂が破られた。ワシワシ蝉が鳴き出した。大きな梨を剥いた。包丁で上手に。途中を切らず。そして細く細く割って大皿に列べ、積み上げた。冷えていておいしい。朝食はおはぎ。小豆餡が甘い。仏壇に供えた残りだ。台所のテーブルの周囲四方に椅子が8個。にぎやかだ。

 

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あなたが悔いるべきことは何もありません

2017年08月14日 06時33分49秒 | Weblog

忍終不悔 にんじゅうふけ

浄土の教えの経典の最後にこうある。「(人生行路の艱難を耐えて)忍びてついに悔(くい有ら)ず」ということだろうか。「仏道に勤め励みて後悔することなし」ということだろうか。

「忍耐する」はわたしの努力である。では「悔い有らず」「後悔することなし」もわたしの主観だろうか。これはどうも客観に相当するように思える。つまり「仏さまの判断」のように思える。

「これで死を迎えられます。わたしは最期まで(人生の苦難を)忍びきりましたよ」とわたしが言うと、仏さまが「それで完成しました。ご苦労様でした、あなたが悔いるべきことは何もありません」と言って褒めて下さる、そういう構図を設定してみた。

嬉しくなった。

人は誰もそうやって死力を尽くして人生行路に邁進しそして終わりを迎える。燃え尽きて死ぬ。すると仏さまが「これで完成です。<もはや悔いのないところ>へ進んで来ましたよ」と言って癒される。・・・だといいな。

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