<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

明暗の明たらしめる暗 暗のこころをいただきまする

2017年08月06日 14時48分47秒 | Weblog

椀に盛っていただきまする 明暗の明たらしむる暗のこころを     薬王華蔵

椀に盛って頂くのは普通は白いご飯である。湯気の立った白ご飯である。「いただきます」は感謝の言葉でもある。ご飯が我が口に運ばれてくるまでの全過程の愛情・温情へのお礼である。

この世には明暗がある。明があれば暗がある。暗があれば明がある。暗があるからこその明である。暗がなかったならば、明の出番はない。暗が背後を占めていてくれるから明が輝けるのである。

明を明たらしめていたのはだから実は真向かいの暗なのである。しかしそれには容易に気づけない。むしろ恨み言しか発せられない。暗の宿主の不幸は嫌だ。不運は嫌だ。病気は嫌だ。災難は嫌だ。貧乏は嫌だ。醜いのは嫌だ。不器用なのは嫌だ。寂しいのも悲しいのも嫌だ。人に嫌われるのも嫌だ。おお、この世はなんと嫌が多いところなんだろう。

しかし、暗部を通り越した者でなければ涙もない。生きている、生かされているという感動のおいしさもない。不幸の重さを抱え込んだ者にしか人間的成長が託されてもいない。人間はここへ成長をするために生まれて来たのである。決して暮らしの贅沢をするためにではない。自慢を人にするためにでもない。己が少しでも成長の階段を上り詰めていくためである。

だから、暗にはこころがあるのである。その人を成長させようという願いがあるのである。悲願が込められているのである。お慈悲が込められているのである。暗を体験した者の目は明を希求することができる。

重圧を強いる暗をわたしに担がせた高い意識の存在がいたのである。そしてその暗が、わたしに届いて来たのである。白いご飯がわたしの口に運ばれてきたように。わたしは「いただきます」と礼を述べてこれを味わう。そのような因縁が成就したということである。高い意識体の加護と指導があったという証しに触れてみて、嬉し涙が溢れて来るのである。

暗にはこころがある。大慈大悲のこころがある。暗と暗のうしろのこころを我が身に頂けるのは忝いことである。

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透き通るスカートの風だったら涼しい

2017年08月06日 14時28分13秒 | Weblog

白茄子のスープすすりて透き通る夏早乙女のスカート涼し      薬王 萌

わたしは女だ。女で良かった。夏のスカートは涼しい。風が入るから。今朝わたしは白茄子のスープを啜って来た。さらさら啜って来た。それで見る見る透き通ってしまった。肌つやのいい白茄子が艶々(つやつや)の魔法をかけたんだ、颯爽と歩く早乙女のわたしに。スカートに風が踊った。魔女になったわたしは銀座一丁目を涼しげに歩いた。少しばかり優越を感じながら。

この作品は頭韻が列べてある。サ行の頭韻である。シ・ス・ス・ス・ナ・サ・ス・ス。白茄子の最後のスまで含めたら実に、6個だ。爽やかなサ行のパレードだった。読者諸氏に爽やかになって貰えたかも知れない。

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抱いても貰えなかったなんて

2017年08月06日 14時11分12秒 | Weblog

でっかい。でっかいのがごろん。見たこともないようにでっかいのが畑に3個。冬瓜の化け物たちである。とても抱えきれるものではない。よくもまあこんなに肥大化できるもんだ。中身はほとんど水分。冬瓜は日持ちが悪い。切ったらその日のうちに食べきるのがいい。しかし、こんな化け物を食べ尽くせるわけがない。大抵は隣近所に分ける。四方八方に電話をして食べる気がないかを問い合わせる。向こうさんでも好き嫌いがあってうまく事は運ばない。作っても、こうだから、面倒だ。引き取り手がないと忽ち腐る。野菜市場に出す気もない。そこを見越したので、ごろんのままにして帰って来た。冬芽は折角ご主人様を喜ばせようとしてきっちり仕事を果たしたつもりでいたのに、抱いても貰えなかったなんて。冬瓜の目が恨めしい目をして追いかけて来たが、無視をするしかなかった。すまぬ。すまぬ。

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影が意思持つ不動の真昼

2017年08月06日 13時44分51秒 | Weblog

夏空へ伸びて行く木の真下なる影が意思持つ不動の真昼              薬王 萌

影が意思を持っている。夏の真昼。風もない。青い空に白い雲が千切れて流れていく。巨木が真っ直ぐに夏空に伸びている。地面が大きな影でひんやり湿る。木も陰も落ち着き払っている。緑の木には緑の影がある。さわやかな影がさわやかな意思を持っていて、不動を貫いている。

意思を持つのは人間ばかりかと思っていたら、うぬぼれだった。夏の社の杜。不意に巨木の真下の大きな影が反論に出た。「俺が此処に居るぞ」と言っている。これはまさしく生きているものの意思であった。はっとした。山も海も空も、その間に生きている自然のエネルギー体も、すべてはこうして意思を貫いているのかも知れない。

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お墓掃除に行ってきました

2017年08月06日 11時56分21秒 | Weblog

お墓掃除に行ってきました。家内と二人で。作業着に身を包んで。墓はお寺にはありません。集落の外れにあります。共同墓地です。9時半に始めて11時半に終わりました。先祖代々のお墓です。父が建てた立派な大きな石塔が立っています。その周囲はセメントで固めてあります。

その外側は余所様の墓所ですが、墓を壊してお寺の共同納骨堂に移してあります。ですからそこは一帯が荒れるにまかせてあります。壊した墓石も散乱しています。あちらこちらにそういう放棄地があります。家を継ぐ人が絶えたところの墓地は、夏草に埋まったままです。奥は林に繋がっています。ですから、我が家の墓地の周囲が藪になっています。

チガヤや小笹、蔓草、葛、セイタカアワダチソウなど夏草類が繁茂し蔓延しています。それを1m四方残らず刈り取りました。椅子に座り移動しながら、丁寧に刈り取りました。余所様の墓所ですが、そうせざるを得ません。手前の空き地は玉砂利が敷いてあります。そこに百日草が花園を作っています。やはり納骨堂移転組です。管理を怠らずになさっているようです。

我が家の行く末を考えました。不安な気持ちになりました。子供は果たして墓所の管理をするでしょうか。この地に残って暮らすとは限りません。遠くへ行って暮らすということも有り得ます。子孫が絶えてしまった場合にはどうなるのでしょう。

やはり納骨堂移転をすべきかもしれません。お寺さんに、今流行りの永代供養をお願いしておいた方がいいのかなとも思いました。

汗びっしょりになりました。久々の労働でした。風呂場で冷水シャワーを浴びました。すっきりしました。お盆がもうすぐです。

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