椀に盛っていただきまする 明暗の明たらしむる暗のこころを 薬王華蔵
*
椀に盛って頂くのは普通は白いご飯である。湯気の立った白ご飯である。「いただきます」は感謝の言葉でもある。ご飯が我が口に運ばれてくるまでの全過程の愛情・温情へのお礼である。
この世には明暗がある。明があれば暗がある。暗があれば明がある。暗があるからこその明である。暗がなかったならば、明の出番はない。暗が背後を占めていてくれるから明が輝けるのである。
明を明たらしめていたのはだから実は真向かいの暗なのである。しかしそれには容易に気づけない。むしろ恨み言しか発せられない。暗の宿主の不幸は嫌だ。不運は嫌だ。病気は嫌だ。災難は嫌だ。貧乏は嫌だ。醜いのは嫌だ。不器用なのは嫌だ。寂しいのも悲しいのも嫌だ。人に嫌われるのも嫌だ。おお、この世はなんと嫌が多いところなんだろう。
しかし、暗部を通り越した者でなければ涙もない。生きている、生かされているという感動のおいしさもない。不幸の重さを抱え込んだ者にしか人間的成長が託されてもいない。人間はここへ成長をするために生まれて来たのである。決して暮らしの贅沢をするためにではない。自慢を人にするためにでもない。己が少しでも成長の階段を上り詰めていくためである。
だから、暗にはこころがあるのである。その人を成長させようという願いがあるのである。悲願が込められているのである。お慈悲が込められているのである。暗を体験した者の目は明を希求することができる。
重圧を強いる暗をわたしに担がせた高い意識の存在がいたのである。そしてその暗が、わたしに届いて来たのである。白いご飯がわたしの口に運ばれてきたように。わたしは「いただきます」と礼を述べてこれを味わう。そのような因縁が成就したということである。高い意識体の加護と指導があったという証しに触れてみて、嬉し涙が溢れて来るのである。
暗にはこころがある。大慈大悲のこころがある。暗と暗のうしろのこころを我が身に頂けるのは忝いことである。