<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

木は地中深くにまで根を下ろしている

2017年08月08日 13時43分05秒 | Weblog

日照りが続いている。庭のアカママが枯れ出してきた。葉っぱが撓っている。下の方の葉っぱはもう黄色くなって枯れ始めている。音からの水分摂取が出来ないでいるためであろう。そうとう深刻だ。台風も避けて通ったが、雨も右へ倣へをした。鉢だけではなく大地全体がカラカラである。トマトや茄子や胡瓜たちは水分を確保するのにどんな手を使うのだろう。使いようがないのかも知れない、これだけ雨が降らないと。木々は根を深く下ろしているからビクともしていない。青々としている。さすがだ。草とは違う。木は智慧者だ。夏の暑さも乗り切れる。日照りも乗り越えられる。地中深く根を下ろしておく、これが要諦かもしれない。人にもこの要諦が当て嵌まるに違いない。

 

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人間の場合の文房具屋さんはあの世にいらっしゃる

2017年08月08日 13時27分54秒 | Weblog

使えないボールペンがたくさん見つかった。捨ててもいいのだが、外側はまだ立派だ。それで文房具屋さんに持ち込んだ。10個。いろんなメーカーのものが雑じっている。そこでしばらく預けることになった。昨日、「できましたよ」の連絡があった。費用は880円。1個あたり88円に当たった。中の芯が新しくなっていた。これで生き返ったのである。使えるようになったのである。蘇生術だ、これは鮮やかな。そう思った。

もしも、人間に適用できるとなればこれは重宝されるだろう。人間の場合はしかしむしろ外側が傷むのであるから、ボールペンの場合とは逆かも知れない。中の芯に当たるのは精神の部分である。これは老化しない。液化しない。病まない腐らない。斬新であろうと努めればそうもできる。外側は肉体で構成されている、これは老化する。死滅もする。

文房具屋さんは、人間の場合はあの世にあるのかもしれない。ここで修理が出来ることになっているのかも知れない。「ハイ出来上がりました」「外側を替えておきました」「さあ、またお使いになれますよ」というようにあの世の文房具屋さんは仰るのかも知れない。

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向こうの方からわたしの方へ届けられて来るのだ

2017年08月08日 13時00分27秒 | Weblog

焚くほどは風がもてくる落ち葉かな

良寛禅師の生き方がこの句に如実に表現されている。われわれは本来労せずして生きていけるはずである。仏さまのお慈悲の深さを信用していれば。あれもこれもという欲望肥大化が起こらなければ。贅沢を我が身の暮らしに採用しなければ。無為であっても人間らしく慎ましく生きられるような天の配慮が行き届いているところだ、この地上は。そういう飄逸がこころに準備されていないと、この句は作れまい。

良寬様は五合庵で一人暮らしだから当然煮炊きもなさる。庵の隅っこに、粗末な小さな竈が用意してある。回りは山である。枯れ葉はある。枯れ木もある。山の奥まで分け入ることはないのである。あるいは、冬の朝、暖をとろうとして焚き火をなさったときの句かもしれない。いずれにしても、欲がない。あるものですましておられる。

さぶろうにはそれができない。贅沢を考えるからだ。欲望肥大だからだ。同意しても同調が出来ない。そうであるのに、ここへその句を引用して、さもさも自分がそういう暮らしに甘んじていられるように書くのは、狡いなあと思う。

呼吸する空気もそうだ。向こうの方からわたしの方へ届けられてくる。それをわたしが鼻で吸うだけで生きられるのである。そういう工夫がしっかり確立されているところなのである。落ち葉が向こうの方から良寛禅師に届けられてくる、そういう事実に禅師は低頭されたのであろう。

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爺婆の元へ孫がやって来る日、今日は

2017年08月08日 12時25分50秒 | Weblog

空港に迎えに行く。3時に飛行機は到着する。孫が降りて来る。小学校の4年生、孫は。女の子。一人旅も堂々たるもの。こちらは乗客の出口で待っている。乗っている時間は2時間弱だけど、回りは知らない人ばかりのはず。不安がっているのかもとこちらは心配するが、着いて出遭うと彼女は「寝ているうちに着いちゃった」ときょとんとしている、いつも。日頃空手道の練習をして胆力を鍛錬しているだけある。すでに紫帯らしい。でも、ついせんだって帯状疱疹を患っていたばかり。ストレスのせいもあるらしい。「あれで案外繊細なのかも」と老爺と老婆はおもんぱかる。ラーメン好き。蕎麦、うどん、チャンポン好き。こちらに居る間に、昼間はそれらを食べさせて上げなければならない。忙しくなる。ま、いいか。こちとら、暇をもてあましているのだから。

台風5号で飛行機が欠航するのではないかと案じていたが、乗り降りする空港を逸れてくれた。助かった。でも、大気は依然不安定。途中、飛行機は揺れるかも知れないな。泣き出したりするかも知れないな。大丈夫かなあ。

今夜から同じ部屋で過ごす。布団も隣同士。孫は爺の手を握りながら目を閉じる。漫画好き。漫画さえあてがっていれば昼間はおとなしい。

ところで、僕自身はお爺ちゃんを知らない。父の父も母の父も早くなくなっている。お爺ちゃんに会うってどんな気持ちがするのだろう。

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一国を照らす大きな輝きではなく

2017年08月08日 10時41分57秒 | Weblog

一隅を照らす 此れ則ち国宝なり。      天台宗経典「山家学生式(さんげがくしょうしき)」より

この句の前に次の句が置かれている。

宝とは何物ぞ 宝とは道心なり 道心ある人を名付けて国宝と為す。

道心とは仏道を歩もうとする発心、心構えのことだろう。仏道とは仏が拓いてくれた一道のことである。この道が仏陀の国まで続いている。この道を歩いて行きさえすれば、われわれはみな仏陀の国に行き着いて仏陀その人に遭えるのである。そして自己の執着心を離れて、そこで仏陀に成るのである。仏陀とは自己の執着を第一とはせず、進んで他者を救済するこころを持ち得た人であろう。そういう人には慈悲の炎が燃えていて熱く輝いている。光を放っている。だから、まずは己の周囲、家族や友人や隣人など身近にいる人たちを明るくすることが出来るのであろう。こういう人が此処其処にいてくれたら、その国は宝の満ちる国となる。径寸十枚とは比べものにならぬほどのハタラキがあるだろう。道心ある人の存在そのものが国の宝であろう。

805年(延暦24年)唐から帰朝した最澄は、比叡山延暦寺を中心にして活動を始められた。この系譜が脈々として今日まで引き継がれて来ている。従って日本国は宝の満ち満ちる国なのである。

一国を照らすほどの輝きでなくともいい。一隅でいいのである。最小単位の広さを照らす明るさでいいのである。そういう人も立派な国の宝なのである。

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その頃 燕は家族の一員だった

2017年08月08日 08時07分46秒 | Weblog

では、おはようさん。その「では」ってなあに? 「うん」 さぶろうは、一つ頷いてから、「えへん」と咳払いした。寝坊をしてもう7時だ。6時半のラジオ体操をサボってしまったことになる。だから、照れ隠しだ、「では」というのは。

「なあに?」と尋ねたのは茶の間の裸電球の真上の、天井横木の燕だった。窓という窓は全部開けっ放しになっている。網戸すらない。だから、早起きの親燕は夫婦代わる代わるもう何度も虫取りに往復を繰り返している。ひっそりしている雛たちがときどき急に騒がしくなる。その時は餌が貰えるときだ。

玄関だって開いている。みな一つの大きな部屋に集まって寝ている。大きな蚊帳が吊ってある。父親が一番奥の布団。それから長男のさぶろう。その隣に弟。布団は隙間なく列べられている。弟から西の方には女性たち。母親、姉、そしてお婆ちゃんが続く。まあ、言ってみればごた寝だ。

スモールランプが付いているから、四方から虫が集まってくる。オニヤンマも蝉もカブトムシもイトキリ虫もやって来る。朝方になるとこれが蚊帳の網目に足を取られて藻掻いていることになる。泥棒なら何処からだって入って来られるが、入って来た試しはない。いかにも、しかし、無防備だ、田舎という処は。

これはさぶろうの小さい頃のお話である。いまは田舎でも施錠してやすむ。いまではこんな蚊帳の中の暮らしは考えられない。家中のガラス窓がぴったり閉められていてキリギリスが入って来る隙間さえない。蒸し暑いので冷房が欠かせなくなった。ご苦労さんなことだ。で、朝になると寝汗をかいている。夜風の冷気すら受け付けないのだから。

では、おはようさん。当時は燕も立派な家族の一員だったのである。一員だから、団欒にも参加をしてきたのである。もちろん燕の方が早寝だけど。鳥の糞対策もしてあった。巣箱の下に長方形の段ボールが吊されておりこれが糞の受け皿になっていた。(こどもたちの夜の日課が一つあった。それは毎晩父が寝付くまで両手で足や腰を揉まされるのである。そのせいでさぶろうの握力は人一倍強くなった)

・・・ところがそれはもう昔話になってしまった。玄関も茶の間も台所の裏の入り口も、どこだってシャットアウトされているからだ。燕が寄りつくこともなくなった。もちろん、朝燕におはようの挨拶をかけることも、照れ隠しの聞き役になってくれることもなくなったのである。

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