1)わたしは願われています/2)わたしは守られています/3)わたしは導かれています/4)わたしは喜ばれています/5)わたしは祝福されています/6)わたしは喝采を贈られています/7)わたしは最期を約束されています。
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こういうふうに受け止めているさぶろうは、ひどく楽天家かもしれません。
1から7までみな受け身形表現です。どれも受動態の表現でいいのです。
能動する主体者・行為主がいてそれらを仕切っています。だからみなその主体者にお任せをしていればいいのです。
ですから、その結果がどう出ても文句が言える筋合いではありません。それが主体者の意思なのですから、責任はその主体者にあります。主体者がそれがベストだと判断を下した結果なのですから。
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この主体者にはいろいろ様々な呼称がありますが、今日ここでは分かり易くするために宇宙の理法そのものである法身仏「毘盧遮那如来」としておきます。名称はAでもBでもCでもDでもいいのです、表に現れて来て「それをしているのは私だ」などと大威張りするなどということはないのですから。
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たとえば上記1の「わたしは願われている者である」ということをもう少し説明します。こうすると理解がし易いかも知れません。「苦しみの泥沼から這い上がって助かってくれよと毘盧遮那如来がわたしに願っています」「何がどうあってもこの道を進んでくれよと毘盧遮那如来が願っています」「最期を見てくれる者がいるという安心をしていてほしいと毘盧遮那如来がわたしに願っています」
上記2「わたしは守られている者である」はこのままでも分かり易いですね。でも「わたしは毘盧遮那如来によって守られている者である」とすると少し具体性を帯びて来ます。
上記3「わたしは導かれている者である」は、「わたしは毘盧遮那如来の手引きによって(わたしにはそう判断できなくとも)良い方へ良い方へ導かれています」とするとより具体性を帯びます。
上記4「わたしは喜ばれている者である」は、「この道を進んでいるわたしはそうしていることを毘盧遮那如来から喜ばれています」
上記5「わたしは祝福されている者である」は、「この地に生まれてこの地に生きているこの地で死ぬわたしは、それをそうしているだけで毘盧遮那如来の祝福の対象者になっています」
上記6「わたしは喝采を贈られている者です」は、「苦しみを体験しそれを乗り越えて生きているわたしはいつも毘盧遮那如来によってやんやの喝采をもらい、褒められています」
上記7「わたしは最期を約束されています」は、わたしの今生の死が次への出立の明るい新しい出発点になることを毘盧遮那如来に約束されています」という具合に。
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ブログがやたら長くなりましたね。ごめんなさいね。「わたしは願われている者である」「見捨てられることなく最初から最後まで毘盧遮那如来の願いによって願われている者である」この受け止めだけで安心が得られるのかも知れません。