机にうっ伏してぐっすり寝てた。お昼寝なのに、穴底に引きずり込まれていた。自分でも、ああ深い寝穴だなと思っていて、目覚め辛かった。疲れていたのかな、やっぱり。疲れるようなことをした? 文学賞に応募する期限があと2日と迫っていて、夜中長い時間、原稿用紙に向かっていた。書いては消し、消して破って、もう一度挑んで、頭の中の電圧が相当高くなっていた。ヒートしようとしていた。その後、朝寝したが、眠れたという充足感が得られなかった。それでもほぼ終わった。でも、まだ、不満足。ちょびちょび訂正が入る。脳の筆記具がよほど錆び付いているのだろう。完成したという気がしない。こんなもの投稿したって、蟷螂が斧を振り上げて牛車の行く手を阻んでいるようなもの、一笑に付されてしまうのがオチかなと思う。それも悔しい。続行不可能。折り合いを付けてペンを措く。稿を起こしてからすでに数十日が掛かっている。思い立たなければよかったかもしれない。数年ぶりの挑戦である。年寄りの冷や水を家内が傍で笑っている。
老が身のあはれを誰に語らまし杖を忘れて帰る夕ぐれ 大愚良寛
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老いていくと何かと心細い。心細いがそれを語ったところでどうにかなるものでもない。体のあちこちが傷む。体力も弱る一方だ。物忘れも酷くなる。頼りにしてついていた木の棒の杖からも忘れられてしまったとぼとぼと帰って来たことよ。辺りはすっかり夕暮れていて足に力が入らない。良寬様は歌を作って己を慰められたようだ。歌の語調もどこか弱々しい。
良寬様はもう70歳を過ぎておられる。年齢も心細さも十郎と共通する。病みつきになってとうとう死出での旅に出て行かねばならない。その日のことを思うことが多くなる。遊んでくれる友も、あちこち故障が来ているようで、なかなか見出せない。一人をかこつ。でもこれは誰もが通らなければならない道。その道を秋風に吹かれてとぼとぼ。今日の十郎は胸の辺りがざわざわしてどうもヘンだ。元気が出ない。
人の子の遊ぶを見ればにはたづみ流れる涙とどめかねつも 大愚良寛
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「にはたづみ」は「流れる」に掛かる枕詞。雨が降ってどっと水が溢れて流れる様子をもいう。良寛禅師がおいおい泣いておられる。涙が、皺の奥にある目から溢れて流れ落ちている。どうされたのであろう。人の子が遊んでいるばかりだ。手毬でもついているのであろうか。もちろん禅師の子ではない。楽しく遊んでいるのなら、どうしてお泣きになるのだろうか。涙の人だったからだろう。では、嬉し涙か。表には現れていないが、人の子が亡くなったのだ、きっと。それでその子が今日は遊びの仲間に入ってこられないその子を偲んで泣いておられるのだ。そういう推測が働く。こどもたちが遊んでいる、それだけで禅師はそこに深い情けを動かしておられる。禅の奥義に達しておられるというのに、空に達観しておられるというのに、生身の情けを隠されない。