午後9時半過ぎ。僕はもうからお蒲団にごろんとなっています。今夜は外気温が下がっています。冷房する必要を感じません。シメシメです。
水だからね僕はほとんど だから死もさらさらきららだろうか だろう 薬王華蔵
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今日の新聞の読者文芸短歌部門の投稿作品。三席をいただいていた。
僕は物質である。僕が認識している僕は、物質物体としての僕である。その物体である肉体のほとんどは水で成り立っている。西瓜やトマトや胡瓜と並列できる。だから、死とは水分が抜けることでもある。抜けるときも水だから滝の水、谷水、池水のようにしているはずである。さらさらと流れて行き、きらきらと光に映えるだろう。そうだろうか。そうだろう。でも、残り僅かな部分が、それでは不満足なんじゃないか。人間の生き死にはもうちょっと意味深長なんだぞと横槍を入れてくるだろう。その残り僅か(これは意識体なんだろうか?)が曲者(くせもの)なんだよね。さらりと行かないんだ。不平不満の塊で、水分のようにはいかない。粘りけがあって澱んでいる。成仏をしたがらない。
ほんとうは水なんだから、なにせ僕のほとんどは水なんだから、水の性質に従っていればすむところを、そうさせない。難癖を付けたがる。タマシイがあるの、ココロがあるの、意識があるの、尊厳の本質があるのと言いたがる。
谷水が流れている。滝水が落ちている。池水がさざ波を立てている。海の水が潮を造っている。地球は水の星である。この水の星は人間のように不平不満で構成されているのではないようだ。さらさら流れている。きらきら輝いている。