願力無窮にましませば、罪業深重も重からず。仏智無辺にましませば、散乱放逸も捨てられず。 親鸞聖人の和讃より
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今日はここを味わってみたいと思います。あくまでわたしの流儀ですから、浅い川です。
願力はわたしたち衆生を救おうと願われた阿弥陀如来の莫大なエネルギーのこと、それが窮まりないというのですから、わたしへわたしへわたしへと滾々と溢れて湧いて来ているのです。ですからわたしの罪業が深く重たくなっていても、それを重たいものとしないでもすむのです。仏智とは阿弥陀如来の智慧と慈悲のこと、それが広大で無辺だから、わたしの悪業悪心が散乱して行っても放逸に流れても、それでもわたしを捨てられることはなく救い取って下さっています。そういうように読んでみました。
それが本当なら、涙涙涙になりますね。実際わたしは目頭が潤んでいます。でも、疑っています、わたしは根本から。わたしのような悪凡夫を救い出すために、如来の清らかな力を、わざわざわたしに法顯されるはずがないのです。