<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

冬 静かな舞台上に仏さまとわたしが立っている 雪が降っている

2018年01月24日 15時26分23秒 | Weblog

「信じ難いこの教え、よくぞ説かれたまひける。仏なりけり、仏なりけり」不意にこの句が浮かんできました。

なぜ信じ難い教えを信じ難い衆生(代表はわたし)に説かれたか。曰く、仏だったからである。そうすることが仏の実践だったからである。

なんにもない空疎な悪世だと捨て鉢になるところだった、危ないところだった。そうではなかったのだ。わたしと仏さまの濃厚な、断ち難い結びつきがあったのだ。切ろうとしても切れない結合が。

仏さまのお目当てはこのわたしである。わたしの救出劇を終わらないでは、仏さまは絵に描いた餅、絵に描いただけの仏さまである。であれば、畢竟、この世でのわたしのお目当ても仏さまであらねばならない。

冬。静かな舞台に仏さまとわたしが立っている。雪が降っている。

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・・・といっても、それくらいかなあ

2018年01月24日 14時59分52秒 | Weblog

さあて、外用に着替えをして外に出てみます。風の音がビュンビュン鳴っています。寒そうです。でも、一日炬燵の中にじっとしているわけにもいきませんね、いかに無造作の小さな爺とはいえ。ほんのちょっとくらいはお天道様にも顔見せをしないとね。まず、洗面所へ行って2度目の歯を磨く。洟を取る。すっきりする。廊下を跫音高く歩いてみる。それから勇気を鼓舞して玄関を出て、畑をそそくさと一周する。震え上がる。縮こまる。また炬燵に潜り込む。・・・それくらいかなあ。

ほう、白いものがまだ空と地面の間を舞っていますよ。明日はもっと寒くなるのかも知れません。

 

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信じ難い教えがわたしのために説き起こされていた その7

2018年01月24日 14時52分30秒 | Weblog

(いいえ、到達していなくとも、ちいともかまわないはすです。後は仏さまがどうにかなさってくださいますから)

(わたしの名を呼べ、わたしのことを思い浮かべよ、その後はわたしにまかせなさい、そういう仏さまのお誓いですから)

・・・経典をひもどいて、少しでも落ち着きを得たかったのです。少しばかりは効果があったかもしれません。雪が止んで日射しが射しています。

上っ面の人真似、猿真似でいいから「歓喜信受作礼而去(かんぎしんじゅさらいにこ) =受け取りました、有り難うございます、安心致しました」を果たしたいものです。

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信じ難い教えがわたしのために説かれていた その6

2018年01月24日 14時47分45秒 | Weblog

これでこの経が締め括られています。羨ましいことが書いてあります。難信の法を説いた阿弥陀経を彼らは理解したのです。

わたしは阿弥陀経を何度も読んでいますが理解していません。上っ面しか読んでいません。だから歓喜が来ないのです。恥ずかしい限りです。わたしのために説かれているのです。死ぬ前までにわたしもこの理解に到達しておかねばなりません。それがいつになるやら見当もつかないでいます。

 

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信じ難い教えがわたしのために説かれていた その5

2018年01月24日 14時45分12秒 | Weblog

この阿弥陀経はこう終わっています。

仏(釈迦牟尼ぶつ)が此の経を説き終わられると、サーリプッタや諸々の比丘・天・人・阿修羅等は、仏の説きたまふ所を聞いて、歓喜(かんぎ)し、信受し、礼を作(な)して而(しこう)して去れり。

サーリプッタはお釈迦様の弟子の名です。お釈迦様にいつも付き従っていた信任のお弟子です。比丘は仏道修行者。天は天界の住人。人は人間界の住人。阿修羅は阿修羅界の住人。ほかにも動物たち鳥たちがいます。聞いていた聴衆です。これがみんな歓喜したのです。理解して、信じて受け取ったのです。そして深々と一礼をして立ち去って行った、というのです。

さあ、わたしはどうしましょう。

 

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信じ難い教えをわたしの為に説かれていた その4

2018年01月24日 14時38分39秒 | Weblog

アノクタラサンミャクサンボダイはお釈迦様が悟られた「無上正等正覚」を言います。この上ない正しい覚りです。これをお悟りに成られましたが、悟っていない人に説き明かすのを何度も断念されそうになられました。それを此の阿弥陀経で思い切ってお説きに成られたわけです。

五濁の流れの中の衆生を救い取らねば、なんのための出家修行だったのか分からなくなってしまいます。

お釈迦様が悟られた偉大なる「無上正等正覚」が、しかし、おいそれとわたしごとき者に理解は可能かどうか。大問題です。でも、わたしが信受しないとすべてが無意味になります。阿弥陀経がそこに介在して橋渡しをしています。

 

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信じ難い教えを私のために説かれていた その3

2018年01月24日 14時33分25秒 | Weblog

「五濁悪世」とはこの悪世に満ち満ちている大きな5つの濁った流れのことです。(1,劫濁(こうじょく)=時代という濁った流れ。2,見濁(けんじょく)=思想という濁った流れ。3,煩悩濁(ぼんのうじょく)=本能的欲望という濁った流れ。4,衆生濁(しゅうじょうじょく)=人間界の質的低下という濁った流れ。5,命濁(みょうじょく)=短くしか生きられない寿命という濁った流れ。)この流れの中をわたしたちは泳いでいます。

そこでお釈迦様は一大決心をされることになります。五濁の流れの中から救い出そうとして、まずはご自分が修行をなさいます。悟りを開かれます。そして説法を始められます。ところが説き明かしていくのが難しいのです。

 

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信じ難い教えを私のために説かれていた その2

2018年01月24日 14時29分16秒 | Weblog

此処は宇宙に満ち満ちておられる諸仏がお釈迦様を讃えてわたしたちに説き聞かせているところです。お釈迦様はあなた方のために此の経典をお説きになられたのですよ、と。難中の難のことを成し遂げられたのです、と。

阿弥陀経は、そういうわけで、宇宙中の仏さま方の絶賛の教えなのです。それをいま私が手にとって読んでいるということになります。

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信じ難い教えをわたしのために説かれていた その1

2018年01月24日 13時19分01秒 | Weblog

阿弥陀経をひもどいてみます。風の吹く竹の林のようにざわざわと騒ぐわたしのこころが、此処へ来てひとときの落ち着きを得る為です。

釈迦牟尼仏は能(よ)く甚難(じんなん)希有之事(けうのじ)を為(な)せり。能く、娑婆(しゃば)国土の五濁(ごじょく)悪世の、劫濁(こうじょく)、見濁(けんじょく)、煩悩濁(ぼんのうじょく)、衆生濁(しゅうじょうじょく)、命濁(みょうじょく)の中に於いて、アノクタラサンミャクサンボダイを得て、諸々の衆生の為に、是の一切世間に難信の法を説きたまへり。   「仏説阿弥陀経」より

 

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おれも一人前にお昼をいただこう

2018年01月24日 12時11分49秒 | Weblog

あっはっは。おれも一人前にお昼をいただこう。12時を過ぎた。なんにもしていないのに。食うだけは食う。考えたらおかしいけど。60兆の体内細胞がお待ちかねだから。

一人だから即席麺にしよう。お湯を注ぐだけでいい。面倒が省ける。まるちゃんのがお気に入りだ。それに加えて、緑茶と、テーブルに残っている焼き芋の小さいのを1個2個。

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