<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

「いいことなどしないでいい一日」は有り難い一日

2018年01月20日 21時24分28秒 | Weblog

9時半になろうとしています。もうやすみます。いい一日でありました。何かいいことをしたからいい一日だったというのではありません。

いいことなど何もしないでいて、した人と同じように文句のない一日を与えてもらっていたのですから、わたしにとってはいい一日でした。「いいことなど何にもしないでいい一日」は有り難い一日です。

さあ、布団に入って、ほっとしてやすみます。庭の沈丁花が赤い蕾を着けています。今日一日の日射しを受けて開花の準備が幾分か進んだことでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

逃げる者を追いかけて来て浄土に導いて行くのが如来の大悲

2018年01月20日 20時59分44秒 | Weblog

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし       親鸞聖人の「和讃」より

如来は阿弥陀如来である。大悲は真如界から来られた如来の慈悲。仏のなされる衆生救済の実務実行のことである。それがわたしの身になされていると受領するとそれはそこで輝き出す。恩徳になる。如来の恩を頂けるのである。その如来功徳にあずかっていられるのである。そのご恩には我が身がたとい粉になったとしても悔いることではない、報いて堂々の道を歩くべきである。信心の道を貫徹すべきである。

師は仏法を伝え弘めて導いてくれたインド・中国・日本の方々だろう。主は尊敬して仰ぐ人か。知識は善知識、ともに歩いてくれた同朋。そういうご恩に対しては我が骨身を砕くようなことがあったとしても悔やむことにはならない、報いて堂々の信心の道を歩くべきである。

そういうことを教えて下さっているのだろうか。

しかし、わたしは未だ嘗て身を粉にしたことはない。骨を砕いたこともない。そういう苦労を強いられたこともない。疑心を煽って不平と不満に膨らんでいるだけの我が身である。まるで如来の大悲が分かっていない。恥ずかしいかな、骨身に染みていないのだ。

罪重く障り多き者をこそ救いの目当てにしているのが如来の大悲である。反目して疑って誹って逃げ去ろうとして行く者を追いかけて来て捕まえて浄土に迎えてくれるのが、如来の大悲である。如来のこの大悲でなければ、とてもこのわたしは救いにはずかれないのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日だまりの縄文土器はたしかにまるっこい

2018年01月20日 20時44分58秒 | Weblog

1月5日付け、新聞の読者文芸にこういう作品があった。ふふ、わたしの日常のようだなと思った。日常は歌になる。これもいいな。

日だまりにまるっこくなりて動かざる縄文土器のような我かも    佐賀市 八坂孝純氏

ふふ。縄文土器の埴輪はたしかにまるっこい。動かない。日だまりの日を浴びれば、しかし、あたたかくなって埴輪もうとうと眠りこけてしまうかも知れない。わたしは昨日そうやっていた。

1月5日の新聞の短歌の投稿欄、そこだけを切り抜いている。ときどきみなさんの入選作品を読み返す。八坂さんの歌いっぷりも素朴でいいなあ。飾らずにいいなあ。それでいてその実景が見える。人柄のまろやかな彼とは何度か酒を飲んだ。元気にしておられるだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日の隠れ家も落ち着けた

2018年01月20日 20時24分49秒 | Weblog

貝塚茂樹博士が解説された「孔子」を読んでいる。落ち着く。久しぶりだ、この本を手に取るのは。若い頃によくここへ逃げ込んできた。逃げ込んだというのは、肝心の英語の勉強をそっちのけにしてということである。逃げ上手のわたしは何でもすべき当面のことから逃げる傾向が強い。年を取ってからも変わらない。すべきことはしない。しないでいいことをする。ひょいひょい隠れ家に逃げる。今日も隠れ家も落ち着けた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

推論に次ぐ推論 恐怖心の有形から、欲望無執着の無形へ

2018年01月20日 18時55分55秒 | Weblog

形がないとみんな恐がるよね。だいたい100人中60人以上くらいが。幽霊だああって言って。怯えて。逃げ惑うよね。こちらに見えていないと、何をされるか分からないからだろうね。幽霊には足がない。足は要らないからね。すういすうい霧のように漂える。そこは便利だなあ。

でもね、大乗仏典に由れば、われわれの心の発達の度合いが進むに従って形がなくなっていく、ということになっているようだね。淫欲、食欲、金銭欲、名誉欲が薄まってくると色界へ移動する。そこからさらに進化向上して、無色界にまで進入してくると、われわれは形を失う。つまり物質への執着がなくなる。

と? 物質で出来ている肉体が解けだして水溶液になって蒸気になって雲散霧消してしまうことになる。後に残っているのは? 透明人間だ。透けてしまう。それを幽体だとか霊体だとか呼んでいる。しかし、精神的には遙かの天界に近いのだ。上等なのだ。悪さをするはずはないのだ。彼らは有形から無形に変容する。形を持たなくなる。見えなくなる。

・・・・等と言うことをさっきから考えていた。すべて推論である。

程度の低い欲界に住んでいる間は、恐怖心も人一倍強い。恐怖心のせいで、会う人を敵と考える。悪人と考える。そうやってしがみつく。しがみつけることが出来るのは有形だ。物質だ。精神的に高みへやって来たら、恐怖心というものがなくなっているに違いない。人を悪人とはしないだろう。

形がなくても自由に活動が出来るのなら、無形になってもいいのじゃないのかな。純粋思考ができるのなら、肉体を持たなくなってもいいのじゃないのかな。・・・・

三界はしかし猶、流転の世界。迷いの世界。仏界ではない。そこを超脱した処に仏界がある。阿弥陀如来はその仏界へ誘っているのである。無色界ですでに無形にして、肉体を持たないで過ごしているのである。仏界に行けばこの傾向はもっともっと強まるだろう。物質や物質に対する欲望に執着がなくなるだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

炬燵の中でうつらうつらしていた とろとろだった

2018年01月20日 16時39分17秒 | Weblog

炬燵の中でうつらうつらしていた。とろとろになっていた。30分以上そうしていたかもしれない。いい気持ちだった。炬燵の中の足はぬくかったが、外に出ている腕や肩がちょっと寒かった。入眠状態に入りかけに、何の夢を見ようかなあとしていた。そういうへんてこりんな移動期間が推移したのを覚えている。ああでもないこうでもないというふうに決めかねていて一つ処を、幼稚園児が乗るブランコのように往復していた。夢って案外他愛ない。夢には年齢がないのかなあ。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太宰府天満宮に詣でました あたたかい陽射しです

2018年01月20日 12時56分41秒 | Weblog

太宰府天満宮に詣でました。日がさんさんと降り注いでいます。目出度くなります。人々人々人人人人人です。日本の人、韓国の人、中国の人、東南アジアの人、アメリカやヨーロッパの人。長い列に従って、太鼓橋を二つ渡り、中門を過ぎ、本殿に着きました。二礼二拍手一礼をして祓い清めました。これで心身が清まりました。清々しい気分です。飛び梅はまだ堅い蕾でした。お堀の見えるところで休憩。おうどんを食べました。梅が枝餅は買って帰ります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

肉体を持つ以外にも 生存・活動の方法は色々あるようだ

2018年01月20日 10時07分15秒 | Weblog

「有形(うぎょう)・無形(むぎょう)」のことがわたしのこころの中でまだ太い尾を引いている。龍神のような尾のような太い尾を引いている。欲界と色界にいるあいだは、有形だが、そこを抜けて無色界に入るとそこからは無形になるというのだ。非想非非想処(ひそうひひそうじょ)という最も高い段階の天界は、物質界ではない。だから肉体というものを持たない。持たないでいられるというのだ。持たないでいて行動は自由自在だというのだ。形の肉体を持たないのだから、当然、わたしは死にもしない。生きているとも言えない。息をしていない。血が流れてもいない。淫欲も食欲も睡眠欲ももはや所持していない。よって生存欲というものに捕縛されていない。不安がない、恐怖がない。肉体を持つ以外にも、生存の方法はいろいろあるようだ。

しかし、この三界はわがこころの発達段階のことでもある。だから空間的に何処かに位置しているというのではない。神々が三界を建設して、勧誘して、我が精神の向上を促しているのである。

わたしは欲界を出たことはない。欲の塊だ。淫欲もある。女性を見たら美しいと思う。食欲もある。旨いものを喰いたいと思う。睡眠欲は当然だ。排出欲もある。名誉欲が一番多くの場を締めているらしいが、これはこの高齢だから願っても叶う者ではないから、自然と遠退いている。お金も欲しい。お金があれば日本一周のクルーズせんんいのって一週間ほどの旅にも出てみたい。だから隣の色界まででも足を運んだことがない。欲を離れないと此処へは入れない。ましていわんや、無色界をや。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神々に肩先を触れられただけで もう

2018年01月20日 09時44分55秒 | Weblog

法華経を読んでいると、天上界には天宮があると書かれている。ほうと思った。行って見たいと思った。それは朱塗りの宮殿の防府天満宮のような所だろうか。天満宮は「天が満ちている宮」とも読める。そして地上界にある。地上に降りて来た神々がここを住処としておられるのだろうか。天宮にはどんな神々がおられるのだろうか。

防府天満宮までは遠いから、今日は近くの太宰府天満宮に行ってみようか。寒いけれども、ようやく日も照ってきたようだ。太宰府天満宮は梅の名所。しかし、まだまだ咲いてはいないだろう。お堀が見える休憩所に立ち寄って梅ヶ枝餅でも食って来るか。

天上界の奥深いところに建つ天宮にはとても興味がある。夢の中では何度も此処へ行ってみた。お婆様のなりをした神々に肩先を触れられただけで、500000000立方メートルの液体エネルギーが流入して来て失神しそうになる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日は土曜日 ひとり何をして過ごそうかなあ

2018年01月20日 08時51分39秒 | Weblog

おはようございます。屋根に霜が下りています。白くなっています。此処から見えている北側の屋根には日が届いていません。

今日は土曜日です。何をして過ごそうかと思っています。これといって格別することがありません。何にでも興味というものが持てません。やりたいことがありません。

風邪の具合はだいぶん改善していますが、本調子ではありません。鼻が詰まっています。痰も喉の奥に引っかかって気持ちが悪いです。食欲が湧いてきません。元気がありません。

やはり法華経を読んで過ごすことになりそうです。これを読んでいるとおだやかになれます。「ああ、そうだなあそうだなあ」などとひとりで相槌を打っています。

畑が待っているのですが、まだ寒そうです。夏野菜のころのままになっている畑があります。草を取って耕して、肥料をやって土を肥やしておくと、春ジャガ芋の植え付けが出来ます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする