<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

美人だった人も例外なく

2018年01月28日 23時38分10秒 | Weblog

シワシワ。老いるとシワシワ。美人だった人も。例外なく。美男子も跡形なく。今日のお寺参り。お堂に座って列んでいる人はどの人もどの人も。シワシワシワシワ。皺は老いの勲章か。シワシワもそれなりに美しい。かって満ち満ちていたことの証しだものなあ。

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小松菜の胡麻和えが美味しい 意外と柔らかだし

2018年01月28日 23時30分58秒 | Weblog

我が家の畑には小松菜がふんだんにある。栄えている。豊かな葉をつけて伸び伸び伸びて、元気色をして、青々。根も深い。朝のお粥に、小松菜の胡麻和えを載せて頂いた。根元近くの茎はシャキシャキ。歯応えがあった。日本には美味しい野菜があるもんだ。

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朝が来ているかとおもったのになあんだまだ今日か

2018年01月28日 23時22分19秒 | Weblog

まだ、今日のうちだった。11時20分少々。なあんだ、と独り言。年寄りは夜が長い。とりわけ冬の夜は。時間を折り畳むということはできぬものか。二つ折り三つ折りしたら、一分で夜明けなのになあ。

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詩はとうとう紡げなかった

2018年01月28日 23時16分20秒 | Weblog

蜘蛛は毎朝必ず紡ぐのになあ。

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老爺にはこういう楽しみもある

2018年01月28日 20時06分33秒 | Weblog

8時を過ぎた。そろそろ入浴の時間だ。このところよく入浴剤を利用している。濁り湯。真っ白に濁る。臭いもする。温泉に入った気分が味わえる。一日の終わりを風呂の中でゆっくりする。太平楽だ。老爺にはこういう楽しみもある。以前は風呂場でよく高音を張り上げて民謡を歌っていたが、この頃は止んでいる。高音を張り上げるにはそれなりの勇ましい元気が必要だ。

その代わり、よく仏教経典を諳んじている。声に出して。バスタブに身を沈めてあたたまりながら。じわりじわり仏陀のお慈悲のこころを感じている。

風呂場は冷えているので、あらかじめ電気温風機で温めておく。毎日下着は着替える。ユニクロの超極暖を揃えた。薄くて温かい。風呂場には小さな冬の花が飾ってある。其れもこころを癒してくれる。

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僕は今日は朝からうずうずしている

2018年01月28日 19時28分40秒 | Weblog

僕は今日は朝からうずうずしている。詩を書きたいというその欲心が蠢いている。ずっと蠢いている。

でもそれは、蚊のこどもの「ぶよ」くらいだ。赤い色はしているが、水中をふわりふわりしているだけだ。ぶよが我が心の水槽の中にたくさんいる。蠢いている。蚊になりたがっている。

蚊になればもうそれで詩だ。価値を持つ。でも、詩が生まれない。ぶよは相変わらずふわりふわり水中を緩やかに泳いでいるきりだ。

詩は紡ぐものだ。縦糸と横糸を織り成して紡ぐものだ。刺繍のようだ。編み物のようだ。でも、編み糸が見つからない。

詩を紡ぎたい。紡いで詩の織物を造り上げたい。美しいもの、艶やかなもの、ごつごつとしたものにして、飾りたい。冬空に見せてあげたい。

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「春を迎える眼を持つ男」という称賛を浴びるにふさわしい

2018年01月28日 19時12分26秒 | Weblog

こんばんは。7時を過ぎました。夕食を終わりました。薩摩芋、人参の天麩羅でした。薩摩芋は貯蔵が難しい。寒さに弱い。で、腐りかけたものが多かった。随分、切り落とさねばならなかった。(僕は夕食準備のの手伝い加勢をした、しばらくだけど。なにしろ包丁を握るのが好きと来ているから。困ったもの。出しゃばりで。)でもそれだけ切り落としていたから、あとは大丈夫。みなおいしかった。芋焼酎をお湯割りで飲んだ。けっこうけっこう。(これは漢字にすると雰囲気が壊れそう。平仮名がいい)

おおい、おおい、おおい。ちと、尋ねるが、おれはこれで一日を終わることになるが、これでよかったのか。良かったも悪かったもないかもしれない。そもそもそれは愚問かも知れない。でも、気に掛かっているのだ。「果たして今日をおれは生き生きと生きたのだろうか」というクエスチョンが、手裏剣のように襲いかかってくる。

「大丈夫。安心なさい」とおれはおれに耳打ちしてあげたい。おれにはおれなりの十分条件を生きたのだ。その第一、おれは今日、花生けに飾ってある沈丁花の蕾を見た。しっかり蕾んでいた。まだ色香も見せていなかった。だが、華々しい意欲を感じた。春を迎えるぞという彼らなりの凄まじい意欲を感じた。それを感じ得たおれは、彼らから「春を迎える眼を持つ男」としての称賛を浴びるに相応しかった。

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喰う楽しみ それ以外にはないのか わたしには

2018年01月28日 18時00分17秒 | Weblog

さ、6時になった。そろそろ夕食の声が掛かるだろう。喰う楽しみ、それ以外にはないのか。ないなあ。

見回しているのだが、見つからないなあ。喰う楽しみがあればしばらくはまあ元気で生きておれるのだが。

食欲。これが我が世の楽しみの最高なのか。まだある。物質欲だ。睡眠欲、排出欲、名誉欲、金儲け欲、色欲、長生き欲だ。

しかし、どれもたしして縁がないなあ。喰う以外の諸々の欲は、未だ以て、実現が遠いなあ。

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生きていながら死んだ振りをしている、のかもしれない、わたしは

2018年01月28日 17時36分11秒 | Weblog

今日の説法の中の言葉が耳に引っかかっている。

「生きていながら死んだ振りをしている」というところだ。

「振り」だから死んでいるわけではない。生きている。でもこれだって「生きている振り」をしているだけかもしれない。

わたしはほんとうに生きているのか。振りをしないでいるのか。突きつけられたような気がした。

生きているのも擬態に過ぎないかも知れない。そういう擬態を取っているだけかも知れない。

説法の趣旨は念仏を生活の中心に据えて生きているべきだというお話だったと思う。眼目はそこだったと思う。煩悩中心、欲望中心、憎しみ怨み中心の生き方ではいけないということ、それを暗示されていたのだろうと思う。

「世間虚仮、唯仏是真」を通すのが仏法にちがいない。でも、わたしの暮らしの事実は「虚仮是真」を通している。だったらやはり、「生きている振り」にしか過ぎまい。我が身の誤魔化しである。

その後不意に「生きていながら死んでいる」人がいるのなら、「死にながら生きいている」人もいるのではないかということを思った。

「死んだと見せて生きた人」がいるのではないか。死者の国は死の国なのではなく、生の国だった、ということに驚いた人、それに目覚めた人である。

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つまりは念仏中心、仏法中心の生き方が出来るようになった人たちである。

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これで生き生きと生きていることができるようになった人たち、である。であれば、われわれ生者は、死者を悲しむべきではない。はずである。

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「有相」と「無相」ということも話された。無相とは姿を持たぬということである。「有相」とはその逆だ。姿を持っているので、そこに囚われが起きて執着心が起こっているわれわれ生者である。肉体をわたしとしているからである。

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「無相」は「空相」ということかもしれない。空を感じ得た人の生き方、肉体の執着から解き放たれた生き方に進み得たことである。

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死は必然的に無相である。姿から解放されている。であれば、「死んでいるが生きている」状況が生まれているかも知れない。

まあそんなこんなを雑然と考えた。結論は出ない。いや、「生きている内に生きていたい」ものだと思った。溌剌と堂々と生きていたいものだと思った。

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わたしが目覚めることを長い間待っていて下さった

2018年01月28日 17時09分37秒 | Weblog

わたしが仏法を聞く。聞く身になった、それを喜ぶ。如来がわたしを動かされた、そのことを思って、我が身の果報を喜ぶ。そこまでだったら、一方通行である。

なあんだ、結局は我が身可愛さで終わったのか。それでは一人乗りだった、おのれ一人の解決に全生涯を費やしたことになってしまう。

わたしが如来に動かされたのを喜んだのであれば、わたしはそこでどうすべきか。此処を終着点としてにんまりすること、それが我が信心だったということになってしまう。やはり利他へ動かねばならない。

親鸞聖人は「浄土真宗を按じるに二種の廻向あり、一つには往相、二つには還相(げんそう)これなり」と述べておられる。わたしが仏法を聞く身になったのは、如来がわたしを動かされたのであって、それは如来の功徳廻向である。これを独り占めにしていては申し訳が立たないではないか。そこを悟りの究極地点にしていたら、それは所詮は独善なのではないか。そういう反省、後ろめたさが起こって来るのだろう。であればどうしても、次へ動いて行かねばならない。次とは還相への挑戦である。

自分が目覚めたのであれば、それは他者を目覚めさせたいという方向へ動いていくはずである。如来の廻向を多くの人たちと共有したいという願いが起こって来るはずである。

普通は還相は死んで浄土に迎えられて成仏して、そこから仏陀と成ったわたしの利他の活動を指しているのではないか。死んでからの話だったのではないか。それは果たして死んでからの話に過ぎなかったのか。

わたしを目覚めさせたのが如来の功徳廻向であったのなら、それを独り占めする訳はない。目覚めが起こったその時点で同時に利他の活動へと動き出して行くはずである。目覚めも死後のことだとすれば、話は別だが。

二種の廻向は、あくまでも阿弥陀仏の二種廻向であるから、還相も阿弥陀仏のそれであらねばならないかもしれない。死ぬ以前のわたしはそれを見守っているだけでいいのかもしれない。

「二種廻向」「入出二門」の考えは、どうやらわたしの手には負えないようだ。

わたしが目覚めることを長い間待っていて下さった方があった。阿弥陀仏である。しかし、わたしがわたしの力で目覚めることはなかった。その力がなかったのである。そのわたしを目覚めさせようとするのが阿弥陀仏の功徳廻向であった。阿弥陀仏はわたしを前にして長い間、獅子奮迅の努力をされているのである。

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