憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
おくねんみだぶつほんがん じねんそくじにゅうひつじょう
阿弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に、即時に必定に入る
*
ここをこう説き明かしてある。
阿弥陀如来の本願を信じる者は、その時に、願力の働きによって、命終われば仏の身となれる者の仲間になる。
*
わたしの命が終わったら、わたしはその時すぐに自動的に仏の身となるとすれば、わたしは命のある間に心配しておかねばならないことはない。ということになる。
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
おくねんみだぶつほんがん じねんそくじにゅうひつじょう
阿弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に、即時に必定に入る
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ここをこう説き明かしてある。
阿弥陀如来の本願を信じる者は、その時に、願力の働きによって、命終われば仏の身となれる者の仲間になる。
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わたしの命が終わったら、わたしはその時すぐに自動的に仏の身となるとすれば、わたしは命のある間に心配しておかねばならないことはない。ということになる。
午前中は親鸞聖人のお書きになられた正真念仏偈を読み解いて過ごした。自分が読み解いたわけではない。読み解かれている現代文をなぞっていっただけだ。理解は難しい。何度読んでもやっぱり麓までしか辿り着けない。山を仰ぐばかりで退却してしまう。高い山で有り過ぎるのだ、僕にとっては。
お昼は日清のチキンラーメン即席を丼に沈めて熱湯を注いで、3分後にするする啜って食べた。簡単だった。小蜜柑を後で一個ぱくっておしまい。それからBSチャンネルで敦煌莫高窟の仏教壁画の番組を見た。美しい仏像たちであった。見ている内にこっくりこっくり居眠りをしてしまっていた。テレビを見るなんて久しぶりだった。風邪は危うい危ういで推移している。ひどくならなければいいがなあ。
人と関わって暮らしていくのがううんと楽しいのでしょうが、わたしはどちらかというとそれを面倒がっています。一人でいる方が楽なんですね。協調性が極めて乏しい方です。一人だと愛想笑いをしなくて済みます。折角人社会の中にいるのですから、その一員として関わって協調し合って、楽しめた方がいいに決まっています。ですがそれをしません。損な性分だと思います。
積極性がないということかもしれません。こちらから出ていって仲良くして下さいと申し出ることができません。ぎこちないのです。羞恥心が旺盛です。「わたしを誇るもの」が見つかりません。ですから人の中に出ていって吹聴が出来ないのでしょう。ひとのそれを聞いているばかりはつまらないのです。羨ましがるだけで引き還ってこなければなりませんからね。どうしてもっと「わたし」を人前に押し出していけないんでしょうか、そんな悩みに取り付かれます。
今日は土曜。一人、奥深い田舎に引き籠もっています。寒いので畑に出て草を取る元気申せています。特に風邪気味だから、一層です。ぼんやりして何にもすることがありません。ベランダの濡れ縁に日向ぼっこをしている猫のミーと変わりがありません。ミーも相棒が一昨日死んでしまって、一人になりました。寝ぼすけミーは、ときおり目を覚まして前足を使って顔拭きをしています。
おはようございます。雪降りは止んでいます。日の射さなかった家の裏側あたりは根雪が固まったままになっています。風は吹いていません。灰色がかった空がいかにもどんよりしていて、見るからに寒そうです。道路が凍結しているのではないか、通勤通学しなければならない人たちがスリップしてしまうんじゃないかと心配になります。ああ、そうでした、今日は土曜日でした。老爺は毎日が日曜なので、曜日すら分からなくなります。
喉の痛みはひどくなています。風邪薬が効きません。咳も少し出て来ました。一度で始めると、いつものことで、なかなか治りません。ゴホンゴホンゴホンすると胸が痛くなります。卵酒でも飲んで、あたたかくして過ごして、早く乗り切ってしまいたいものです。近くの椎の林でヒヨドリが甲高く鳴いているのが聞こえて来ます。ヒヨドリも寒かろうなあと思います。みなさん方もどうか風邪を引き込まないようになさってくださいね。
死ぬということはどういうことなんでしょうなあ。先に死んでいった者が夢に出て来てそこら辺のことを密告してくれたらよさそうなもんですがなあ。やっぱり口封じされているんでしょうか。はっきりこうだという具合になりません。するていと、なんですか。やっぱりそこら辺のことは知らないままでいた方がいいということなんでしょうかねえ。どうせ向こうへ着いたら一目瞭然とすることですから、それまではオブラートに包んでおいた方がいいということなんでしょうかねえ。こうでもないああでもないというように、想像たくましくして遊んでいろということなんでしょうかねえ。死んだ弟に兄さん風を吹かして夢の中でこっそり聞き出してみるという手はありませんかねえ。
昆布つゆ出汁。おでん風。竹輪と白コンニャクと輪切りどかんの大根がはいっているだけ。薄味にとろりととけている。箸を突っ込む。二つに割る。口に投げ込む。舌に載せて味わう。熱燗の日本酒🍶を啜る。コップ酒だ。温かさが身に沁みる。窓の外は雪溜まりして白い夕闇。
わたしは田舎者権兵衛。あっさりした田舎料理が好きですなあ。昆布つゆ出汁で煮込んだ薄味大根がなにより好きですなあ。とろりとしていますなあ。二切れ三切れあれば冬の夜が過ごせます。世に大根というものがあってよかったですなあ。大根さま大根さまと手を摺り合わせて拝みたくなりますなあ。
喉の奥のジガジガがとれませんなあ。寧ろひどくなっていますなあ。腫れてきた感じがしますなあ。水分摂取はちょくちょくしているんですがなあ。寒気はありません。熱もありません。鼻も詰まってはいません。鼻呼吸ができます。
自力回復は難しいというのであれば、明日にも近くのクリニックへ行って、老先生に頭を下げてチョイと注射一本打ってもらますかなあ。年寄りは肺炎にかかりやすいですからなあ。
今真夜中の1時20分過ぎ。死んだ弟の夢を見ていました。弟一家といっしょに鯛しゃぶ鍋料理で飲んでいました。またぞろ何かとけちを付けていました。来るのが遅かったじゃないか、何処へ行ってたんだなどと。
夢を見るということはどういうことなんでしょうなあ。近くにいるということなんでしょうかなあ。近くじゃなくて同居しているということなんでしょうかなあ。死ぬということはどういうことなんでしょうなあ。ふううん、分かりませんなあ。