仏教でいう「無学」の人というのは、学び尽くしてもう学ぶことがなくなった人のことらしい。空(くう)に達し得た阿羅漢だとか菩薩だとか如来とかいうレベルの人なんだろうか。反対の「有学」は、だから、なんにも学んでいない人。僕のような人を指している。煩悩・雑念は学んだ成果には当て嵌まらない。雑念の世界のこの世のことを学ぶ必要がなくなるときが来るということだろうか。学ぶ必要があるのはあの世のこと、次の世のこと、後生のこと、死後のこと、真如界のことかもしれない。
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この世のことを学んでいない僕、怠け者は、そんなことを考えて、我が不真面目さ、我が不勉強さを棚に上げようとしてかかる。ずるいぞ。この世の学問は雑念の学問ではないはず。だから、小学校、中学校、高校、大学と勉強を積むのに違いない。死ぬまでが勉強だともいうからね。
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そしてそれほど長期間学校へ行って、社会勉強も積んで積んで、老爺になって、そこから見えて来るものは何か。ずっと勉強を積まないで来たこの老爺の眼は、でもって、限りなくうつろな眼である。
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限りなく清らかで限りなく美しい雪、眼前に落ちて来る雪を、いったいどれくらい美しいと見ているのか。「そんなものはわたしとは無関係」としか映っていないとすれば、悲しむべき事である。