<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

学び尽くしてもう学ぶことがなくなった人=無学

2018年01月24日 11時50分13秒 | Weblog

仏教でいう「無学」の人というのは、学び尽くしてもう学ぶことがなくなった人のことらしい。空(くう)に達し得た阿羅漢だとか菩薩だとか如来とかいうレベルの人なんだろうか。反対の「有学」は、だから、なんにも学んでいない人。僕のような人を指している。煩悩・雑念は学んだ成果には当て嵌まらない。雑念の世界のこの世のことを学ぶ必要がなくなるときが来るということだろうか。学ぶ必要があるのはあの世のこと、次の世のこと、後生のこと、死後のこと、真如界のことかもしれない。

この世のことを学んでいない僕、怠け者は、そんなことを考えて、我が不真面目さ、我が不勉強さを棚に上げようとしてかかる。ずるいぞ。この世の学問は雑念の学問ではないはず。だから、小学校、中学校、高校、大学と勉強を積むのに違いない。死ぬまでが勉強だともいうからね。

そしてそれほど長期間学校へ行って、社会勉強も積んで積んで、老爺になって、そこから見えて来るものは何か。ずっと勉強を積まないで来たこの老爺の眼は、でもって、限りなくうつろな眼である。

限りなく清らかで限りなく美しい雪、眼前に落ちて来る雪を、いったいどれくらい美しいと見ているのか。「そんなものはわたしとは無関係」としか映っていないとすれば、悲しむべき事である。

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ここで暮らしたことをどれくらい覚えているのだろう

2018年01月24日 11時24分06秒 | Weblog

おやおや、雪に吹き付けられるものだから、椿の木の葉っぱが真っ白になったぞ。ひらひら浮沈するので、緑が僅かに見え隠れしている。

みんな死ぬんだなあ。有限なんだなあ。でも大地や天空はなかなか死ぬことはないなあ。昔からずっとある。あり続けている。そこへ雨が降ったり雪が降ったりしている。人間は限りが有るからいいんだろうなあ。そんなに根気強くないものなあ。無限までの忍耐心はないはず。同じ形態を保ってはいられない。で、死んだり生きたりをして、飽きが来ないようにしているのかなあ。雪や雨だってそうだよね。いつもいつも降っているわけではない。

地球上に誕生してここで暮らした人たちはいままでにどれくらいの数なんだろう。今生きている人たちだけでも75億人だから、その100乗倍のその100乗倍くらいはいたんだろうなあ。その人たちは死んでしまってここを離れて何処へ行ったんだろう。何処かへ行ったんだよね、きっと。で、いったい何をしているんだろう。なんにもしてはいないのかな? ??? なんにもしないでいるってどんなことなんだろう? 

炬燵の中にいるのに似ているのかな。僕が今日ここでそうしているように。なんにもすることがなくてぼんやりしているのかな。そんなことはない。と思う。何かは活動しているに違いない。物質ではなくなっても非物質として、つまり精神として単独で、何か活動をすることを覚えて張り切っているのかも知れない。物質の眼にはちっともそれは見えて来ないけど。

ここで暮らしたことをどれくらい覚えていられるんだろう? 思い出して思い出して、はっきり思い出して、それでいつもにっこりにっこりしているのだろうか。だとすれば、にっこりの顔の中心の二つの眼に映っているものは何なんだろう。しんしんと雪の降る美しい白銀の世界だろうか。

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暇を暇にしているだけで、怠け者の怠け癖は治らない

2018年01月24日 10時41分51秒 | Weblog

雪が舞っている。くるくる舞いながら落ちて来る。空のどの辺りの高みで精製されて、落ちて来るのだろう。シベリアの方から大寒気団が、日本の上空に流れ込んで来ているのだろう。それより下に漂っている水蒸気が、冷やされて冷やされて雪の結晶が生まれているのだろう。はらはら散ってくるが、積もることはない。屋根にあった昨夜の雪もすっかり解けている。日射しが時折差し込んでもいる。光に輝かせられながら落下する雪片もそれなりの風情がある。

僕はなんにもすることがない。炬燵の中に入ってあたたまっている。音楽を流し続けている。捻り鉢巻きをして、若い頃におざなりにした数学や理科の勉強でもすればいいのに。怠け者の怠け癖は治らないようだ。暇を暇にしているだけだ。

鼻水が垂れてくる。咳と痰は続いている。左胸がずきずきする。しかし、もう薬を飲むのは止めにした。昨日ヤクルト販売の人が回って来たので、甘さ控え目のヤクルトを買った。それをさっき飲んで喉の渇きを潤した。やややや、窓の外は雪が酷くなってきたぞ。吹き付けてきた。

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トイレは臭いところ、田舎は臭いところというイメージがなくなった

2018年01月24日 02時08分40秒 | Weblog

真夜中の2時を少し過ぎたところ、今は。山里は静かだ。二回目のトイレ行きをすませた。裸足でこととんこととん廊下の突き当たりまで歩いた。便器の周囲が汚れないで済むように、排尿でも、排便と同じように、パンツを下にずらして便座に座ることにしている。で、露出したお尻が寒い。便座には左右に把手が付いているので、座るとき立ち上がるときに、これに掴まる。便利だ。立ち上がると、水洗だから自動で流れる。跡を残さない。臭くない。

小さい頃はぼっとん式トイレだった、何処も。汚物もウジ虫も、お尻を拭いた新聞紙も丸見えになっていた。臭気が籠もっていた。トイレは不潔なところ、不浄なところ、臭いところ、汚いところだった。今はそうではない。がらりと変わった。汲み取りも不要になった。昔は「たんぼ甕」に移し替えて、そこからまた桶で畑に運んで行って、肥料にしていた。蠅がたかった。畑が遠いところにあった。そこまで桶を肩に担いで行かねばならなかった。これは母の仕事だった。臭い汚い辛いを言っておられなかった。中学生くらいになると嫌々ながらこれを手伝った。少し後になると汲み取り屋さんが来て始末してくれるようになった。母の負担が軽くなった。

そんなことを思い出した。トイレは臭いところ、田舎は臭いところというイメージがなくなった。衛生的になった。

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