<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

「入出二門」ということの我流解釈

2018年01月28日 16時24分58秒 | Weblog

「入出二門」は、二門あるようで、一門でもある。入った門から出ていく場合が多いだろう。その場合は「入出同門」である。しかし、表門、裏門とある場合もある。この場合も、表門を入って裏門に出れば、「入る」と「出る」は二門になる。裏門から入って表門に抜ける場合も二門だ。

仏の世界、真如界に入ることを往相といい、出ることを還相というらしい。今日のご正忌さんの説法の中にこの言葉が紹介された。親鸞聖人のお言葉か。真如界=仏界に、先ず入ることが先決事項かもしれない。そうするとそこから出て行ける。出て行くときには、しかし、真如界を背中に背負って行けるのであるから、元に戻る訳ではないことになる。

神社は神々の領域である。寺院は仏・菩薩・明王・化仏(けぶつ)の領域である。そこへ足を踏み入れると、変化が起こっているのかも知れない。それぞれの世界を背中に背負って出て来られるのかも知れない。「入る」というのは自利の完成、つまり「人間完成」の謂、「出る」というのは利他の働きに出動することか。

そういう自利利他の「空間」の役割を神社や寺院が担っているのかもしれない。そこへ入って行けば、出る時には微妙な変化が起こっているのかも知れない。仏智=仏の智慧に「感染している」場合があるのかもしれない。

「煩悩即菩提」も二門あるようで一門である。「梵我一如」の「一如」は、一つの門(同門)を入ったり出たりしているということかもしれない。

今日は檀家寺のご正忌さん(宗祖親鸞聖人のご命日)の法縁に与った。変化がわたしの中に起こったかどうかは定かではないけれども、ともかくもお寺(仏縁にあずかる空間)という「空間」に入って、そこを出て来た。目に見えぬが、意味があったのかも知れない。

「入出二門」はもっと違った解釈をすべきかも知れないが、今日の所では僕はそんな風に考えたことだった。

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今日の中に昨日と明日が含められて同居している

2018年01月28日 16時13分13秒 | Weblog

豆は実なのか、種なのか。花が咲いて、雄蘂雌蘂が受粉すると結実する。それを土に埋めるとそこからまた発芽するので、これは種でもある。種が発芽するのに必要な栄養分がその実の中に貯えられている。実と種との境目は何処なのか。時間の推移がそれを決めているのかも知れない。結果はすぐに原因となる。一つの結果は次の原因を含んでいるようだ。切れ目がないのかもしれない。人間の生活もまた同じようなことが言えるのかも知れない。今日の中に昨日と明日が含められている。案外この三者は、単独では存在し得ず、常に「同居している」とも言えそうだ。植物の実(種)を見ていると、そこに「いのちの連続性」を見る思いがする。

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宝石のような青い海の宮古島へまた行ってみたくなった

2018年01月28日 11時16分24秒 | Weblog

で、それから、アカシックレコード・リーデイングをするレコーダー「玉愛あみのオフィシャルサイト」をネット検索して見ていた。もう随分前に宮古島で買ったパワーストーンのブレスレットのメンテナンスを申し込もうと思って。娘たちにプレゼントしたのがもう擦り切れ寸前らしい。実は、彼女に京都でアカシックレコードもしてもらったことがある。わたしの人生の過去へ過去へ遡ってもらった。「虚空図書館の人生記録」は仏教の深い潜在意識「アラヤシキ」に通じている。また宮古島に行ってもいいな。宝石のような青い海は感動の海だ。空港でレンタカーを借りて数日島を巡ることができる。

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「おはよう」ではなくてもう「おそいよう」かな

2018年01月28日 10時55分05秒 | Weblog

おはようございます。もう、「おはよう」ではなくて、「おそいよう」かもしれないけど。なにしろ、目覚めたのが9時。9時起きは珍しい。夜中、何度も寝て起きて、寝て起きてた。朝ご飯は久しぶりにお粥だった。さらさらしたお粥。これが好き。鰹節かけ高菜の一夜漬けと梅干しとを混ぜて、啜り込んだ。お替わりもした。白菜と茸の味噌汁もおいしかった。

雨とも雪とも言えぬその中間ぐらいのが降っている、霏々として。空は灰色をしている。今日は檀家寺の説法を聴きに行く。午後から。お斎(とき)も出される。精進料理の食事だ。浄土真宗宗祖親鸞聖人を偲ぶ会「お正忌さん」である。本堂は広い。寒いだろうな。風邪が流行っているから、人が集まるところは風邪の蔓延に要注意だ。

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ただの一度も恩を返せとは言って来ないのだが

2018年01月28日 05時28分00秒 | Weblog

体内ダム湖が満水した。放水するしかない。夜中の番をしてくれた者たちがいる。腎臓、膀胱、膵臓、肝臓、脾臓、心臓、血液循環、肺呼吸、脳司令塔、もっと大きな司令塔、わたしにいつも付き添ってくれている支援団体、守護神、その他大勢の曰く言い難いボランティア活動家たちである。彼等の勤勉な働きにお礼を述べたい。彼等の無言奉仕活動のお陰で、健康が保たれている。放水しながら、低頭する。彼等の無私のお慈悲に思いを馳せる。どうやったらご恩に報いられるか。ふっと考えてしまう。しかし彼等は徹底して無私である。己の労働価値を主張して来ない。ただの一度も恩を返せとは言って来ない。そうなのだが。

おお、もう明け方だ。そろそろ6時。冷えている。

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