「入出二門」は、二門あるようで、一門でもある。入った門から出ていく場合が多いだろう。その場合は「入出同門」である。しかし、表門、裏門とある場合もある。この場合も、表門を入って裏門に出れば、「入る」と「出る」は二門になる。裏門から入って表門に抜ける場合も二門だ。
仏の世界、真如界に入ることを往相といい、出ることを還相というらしい。今日のご正忌さんの説法の中にこの言葉が紹介された。親鸞聖人のお言葉か。真如界=仏界に、先ず入ることが先決事項かもしれない。そうするとそこから出て行ける。出て行くときには、しかし、真如界を背中に背負って行けるのであるから、元に戻る訳ではないことになる。
神社は神々の領域である。寺院は仏・菩薩・明王・化仏(けぶつ)の領域である。そこへ足を踏み入れると、変化が起こっているのかも知れない。それぞれの世界を背中に背負って出て来られるのかも知れない。「入る」というのは自利の完成、つまり「人間完成」の謂、「出る」というのは利他の働きに出動することか。
そういう自利利他の「空間」の役割を神社や寺院が担っているのかもしれない。そこへ入って行けば、出る時には微妙な変化が起こっているのかも知れない。仏智=仏の智慧に「感染している」場合があるのかもしれない。
「煩悩即菩提」も二門あるようで一門である。「梵我一如」の「一如」は、一つの門(同門)を入ったり出たりしているということかもしれない。
今日は檀家寺のご正忌さん(宗祖親鸞聖人のご命日)の法縁に与った。変化がわたしの中に起こったかどうかは定かではないけれども、ともかくもお寺(仏縁にあずかる空間)という「空間」に入って、そこを出て来た。目に見えぬが、意味があったのかも知れない。
「入出二門」はもっと違った解釈をすべきかも知れないが、今日の所では僕はそんな風に考えたことだった。