仏作仏行。ぶっさぶつぎょう。仏が仏の行を作(な)すなり。道元禅師の言葉。
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只管打坐(しかんたざ)。何かを求めてではなく、ひたすらに座禅に打ち込む。それが仏行になっている。その時にはすなわちもはやその人は仏と変わることがない。仏になろうとして座禅をすると囚われが起きて迷う。仏であることを楽しんで座ればそのときにおのずからにして仏と等しくなっている。なるほど、仏行をできるのは仏のみであった。
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そんな風に解釈してみた。わたしの頭の解釈である。したがって、こじつけである。
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なるほど、道元禅師の禅は涼しい。暑苦しい汗が出ていない。重たい自己を仏行に運んで行こうとすると汗が出るが、万法がみずから進んで来るのを受け入れれば無理がなくて済んでいる。なるようにしかならないが、なるままで仏の行になっている。