<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

あなたも骨が折れるでしょう

2018年12月03日 21時20分38秒 | Weblog

その原因は、たぐり寄せれば、わたしにあります。人を恨めません。ですから、恨みをすうと引っ込めます。済まなかったなあとこころで詫びます。

でも、たぐり寄せた紐が緩むと、また恨みに引き返します。悲しくなったり、冷たい目をしたり、それが辛くなったり、すまない気持ちになったりします。

こんな具合です。往復を繰り返すこんなわたしに付き合うあなたも骨が折れるでしょう。わたし自身もタイヘンなのです。しかし元を辿れば、責はわたしにあるのです。

わたしは、責任転嫁の芸当の、名人芸に堪能です。ああ、これが、死ぬまで続くんだろうなあきっと。溜息(´ヘ`;)。真顔をして、人が悪い人が悪いを言い募るだろうなあ。

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すう。ぷう。ぷ。ぶぶう。

2018年12月03日 21時06分42秒 | Weblog

今日は屁がよくよく脱獄を図った。出物腫れ物ところ嫌わず。すう。ぷう。ぷ。ぶぶう。出してあげないと内乱のストライキをしでかすし。困った。近くに人がいたら、臭かっただろう。いい気なもんだ。屁なんか出したりいたしませんというような、澄まし顔をして過ごした。すき焼きで大量の白葱を食ったのが災いしたのだと思う。白葱は繊維質。臭い被害の人の、鼻に謝るよ。

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わたしをいつも光が照らしている

2018年12月03日 18時49分39秒 | Weblog

大悲は倦むことなく常に我を照らす。大悲無倦常照我。だいひむけんじょうしょうが。     親鸞聖人の「正信偈」より

わたしをいつも照らしている光がある。その光のハタラキを大悲、或いは大慈、或いは大慈悲という。仏さまの呼び掛けのことである。仏さまのお導きのことである。それには倦怠がない。ストップがない。いつもいつもいつも全力を込めておられる。

ところが、それをわたしは見ない。見ていない。見えていない。感じていない。受けていても、受けていることに気づけない。素知らぬ顔でいる。仏がわたしを照らしていることなどとは思っていない。

それでもわたしが照らされている。いつもいつもいつも照らされ続けている。わたしが関わっているのはわたしの欲望である。自愛の欲望それだけである。わたしは仏を否定して掛かるけれども、仏はわたしを全肯定しておられる。

その一方通行を済まないと思うことがある。ひょいと済まなく思うことがある。

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十五夜も喰っちまうのか

2018年12月03日 17時21分43秒 | Weblog

今日の即興詩「十五夜も喰っちまうのか」

十五夜も喰っちまうのか/狼は/メスを呼ぶオス狼が/山頂の岩に立つ/横っ面して吠える口の中に/十五夜が輝く/オス狼はメス狼を呼んで呼んで/吠える/メス狼はお化粧が長くって/すぐには現れない/午前4時を回る/ぎんぎらぎんの十五夜が/喰われっちまう/とうとう尾鰭(おひれ)だけになっちまったときに/木枯らしがぴゅんと吹いた/

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友人と湯に浸かる その4

2018年12月03日 16時09分55秒 | Weblog

13時半、山中の更に奥地の山菜料理屋さんまで出掛けて行って、昼食。自然食品、植物学愛好者たちがよく来るところ。一度行って見たいと思っていた場所だ。彼の奥さんのお奨めの場所である。奥さんが電話で予約をして下さっていた。お昼の山菜御膳1680円を頂いた。食べられる野草のオンパレードだった。おいしかった。彼が、お金を出すと言ってきかなかった。甘えた。

それからぶらぶら山中をドライブして帰って来た。雨は中々止まなかった。

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友人と湯に浸かる その3

2018年12月03日 16時08分21秒 | Weblog

「雨になったのお」「そうのう」「あさん(=きみ)暇こ?」「今日は暇ぼ」「そいなら、温泉に浸かりに行こかの」「よかぼう」という具合に話が進んで、彼が僕の車に乗った。40分して温泉地に着いた。ちょうど12時。30~40分は湯の中に沈んであたたまった。湯船はほかにも山猿が顔を赤くして、たくさん屯(たむろ)していた。

 

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友人と湯に浸かる その2

2018年12月03日 16時02分42秒 | Weblog

彼は、「昨日、焼酎を貰ったぼ。あさん(=きみ)がのまんこ=飲みなさいよ」と言って、提げて来た鹿児島の芋焼酎5合瓶を差し出した。高価な焼酎である。彼は社交家である。社会奉仕の精神に厚い。人の面倒をよく見る。僕はその反対。

「すまんなあ」と言いながら、受け取る。今夜はこれで飲める。

 

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友人と湯に浸かる その1

2018年12月03日 15時35分14秒 | Weblog

友人が、「おおい、おっこう=おるか」と声を発しながら、やって来た。「おっぼう(おるぞ)。あがらんこう(上がって来てよ」と答えた。上がって貰って、緑茶を飲んだ。何杯か。彼はおいしい緑茶党だ。それから朝、焼き上がったばかりの焼き芋(小さい)を、二人してしばらくもぐもぐ食べた。

 

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極重悪人と仏陀が相まみえ照らし合うところ=わたしの地獄界 その6

2018年12月03日 15時32分16秒 | Weblog

極重悪人でいながら、仏陀と相まみえることができる。照らし合うことができる。仏陀の光を届けられて、光がそこから反射する。

すると悪人の口に念仏が滲みだしてきて、洩れる。懺悔(さんげ)が堰き上がる。

極重悪人は唯(ただ)仏を称うべし。こう読むべきだろうが、その正規の解釈から外れてみた。

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極重悪人と仏陀が相まみえ照らし合うところ=わたしの地獄界 その5

2018年12月03日 15時22分37秒 | Weblog

我亦在彼摂取中。わたしも亦、彼(=仏陀)の摂取(掬い取り=救済)のただ中に置かれていたのだ、という自覚に促される。自覚が生まれれば、称名念仏に至る道が開かれて来る。

この自覚は飛び上がりたくなるほど嬉しい自覚である。極重悪人にして初めて味わいうる自覚である。

 

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