5
わたしは抵抗を試みます。阿弥陀仏から手を取られても阿弥陀仏だとは見えて来ないのです。ぎゅうぎゅう引っ張れるその力の強いこと強いこと。で、鬼だとすら思えて来ます。わたしは最後の最期まで俗悪なんです。態度を改めないのです。
そして安養界に到着します。そこですべてが諒解される仕組みです。わたしの生涯の不安がここでぱったり消えます。
至 安養界 証 妙果
安養界に至って初めて我が身に成仏の妙果を証明するのですからね。
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わたしは抵抗を試みます。阿弥陀仏から手を取られても阿弥陀仏だとは見えて来ないのです。ぎゅうぎゅう引っ張れるその力の強いこと強いこと。で、鬼だとすら思えて来ます。わたしは最後の最期まで俗悪なんです。態度を改めないのです。
そして安養界に到着します。そこですべてが諒解される仕組みです。わたしの生涯の不安がここでぱったり消えます。
至 安養界 証 妙果
安養界に至って初めて我が身に成仏の妙果を証明するのですからね。
4
どうも嘘八百に聞こえてしまいますよね。
わたしは一生を悪を造って過ごしているばかり。そのときに阿弥陀仏の弘誓(ぐぜい)の方から近づいて来て、捕まえられて、そのままお浄土へと手を引いて行かれる。
「値」は「もうあう」と読む。仏の意思でわたしに会ってくださることを指す。
そんなこと嘘八百に聞こえてしまいますよね。
こう聞こえるのもわたしの耳の嘘八百能力の高質のため。それで俗悪を通して来たんですから、無理はありません。
3
一生造悪 値 弘誓 至安養界 証 妙果
一生 造悪したのに、阿弥陀仏の救済に与れて、安養界に至って 成仏の妙果を証明する
*
わたしは一生俗悪の限りを尽くしたのでございますよ。それがどうして至安養界できるのでしょう。この一身に成仏の妙果を証明できるのでしょう。分かりません。
理由は、お浄土へ行けば分かりますよね。
2
一生造悪 値 弘誓 至安養界 証妙果
いっしょうぞくあく ち ぐぜい しあんにょうかい しょうみょうか
わたしのことが書いてある。書いてあることが事実だとすれば、それはあんまり虫がよすぎはしませんか。いいとこ取りが過ぎていませんか。自問する。
はい、まったくのいいとこ取りです。
1
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果
いっしょうぞくあく ちぐぜい しあんにょうかい しょうみょうか 親鸞聖人の「正信偈」より
一生 造悪すれども 弘誓に値(もうあ)いて、安養界(=お浄土)に至って、妙果を証す
わたしはこの一生を費やして俗悪してまいりました。ところがです、阿弥陀仏の本願の誓いがわたしに会うと言ってきかなかったのです。わたしは会いました。そしたらわたしは誓い通り、そのまま阿弥陀仏の安養界(=お浄土)に連行されまして、その上に、仏陀に成るという成仏の妙果(good result)を実現したのでございます。
この俗悪のわたしがですよ。こんなことがあってもいいものかどうか語るのも憚られてしまいます。
7
このわたしを救済できなければ、阿弥陀仏は仏の座るその座を下ろされてしまうだろう。わたしあっての阿弥陀仏なのだ。わたしと阿弥陀仏は一心一身なのだ。
(ここでこのシリーズを閉じる。ここまで書いてきたら、この老爺の目には懺悔の涙堰き上がって来てもいいはずだが、それもない。それほどの浅薄な己の非思量底なのだ。仏陀の誓願にふさわしい己なのか。老爺問うに問えない)
6
どうしてそこまでの配慮をされているのか。阿弥陀仏はどうしてこうも俗悪のわたしに関わっておられるのか。どうしてこうもわたしを守って導いて救って行かれるのか。
5
わたしの非思量底様。わたしの非思量底様。わたしの非思量底様。非思量のわたしの胸の底がそのまま阿弥陀仏の住居になっている。
4
非思量底のわたしに思量が浮いて淀んでいれば、阿弥陀仏の思量はその底を充満できなかったであろう。わたしは、幸いなるかな、思量底からっぽであった。阿弥陀仏の誓願をおもんぱかるほどの思量は産みだされてはいなかったのだ。
3
浄土門はとことん他力だ。自力作仏(じりきさぶつ)がない。これでないと非力のわたしは救われていかない。
思量をしている振りは出来る。だがそれは、思量になっていない。煩悩妄想するための思量に過ぎない。