<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

だからといって、そのままに、ほっとけなかったのだ

2018年12月09日 20時05分26秒 | Weblog

わっはのは。はははははの、は。日が暮れてしまうまで、外に出ていた。畑に出ていた。プランターに種蒔きをして、育てていた白菜苗を、畑に植え直した。もう草丈が20cm以上もあるのだ。根を損なわないように、シャベルで掬い上げるようにして、丁重に扱った。最後に水をたっぷり撒いた。これでよし。寒かった。とても寒かった。でも、寒さ以上だった。僕の遊び心が勝った。

しかし、もう白菜はこれ以上は育つまい。この寒さだ。成長は見込めまい。そのまんまで、春を迎えて、花を着けておしまいだろう。しかし、だからといって、ほっとけなかったのだ。より育ちやすい条件を提供して上げたかったのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信心することは歓喜することなり ラスト

2018年12月09日 20時01分43秒 | Weblog

信じようが信じまいがそうなっている。そうしか、ありようがないのだ。それを知る。それを確信する。それを信頼する。そして歓喜に至り着く。至り着かなくっても、いいのである。無理矢理ではないのである。でも、導きがないと迷いのただ中に沈んで、悲しむ。淋しがる。不安がる。で、そこを脱出せしめられる。救済に与(あずか)る。与(あずか)ってみると、其処が仏陀の国なのだ。往生成仏を果たしているのだ。

信心することは必然として歓喜することである。手放しの手放しなのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信心することは歓喜することなり その6

2018年12月09日 19時54分54秒 | Weblog

わたしの力で地球を回せといわれてもわたしにはできない。わたしの力だけで太陽を輝かせよといわれても、わたしにはできない。でも、できないで、いいのである。わたしにはどんな力もなくていいのである。それと等しい。わたしが信心すること、歓喜すること、極楽に往生すること、行って不退転にとどまるということは、わたしの力を要しない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信心することは歓喜することなり その5

2018年12月09日 19時53分28秒 | Weblog

ことさらに阿弥陀仏の名号としなくとも、受けているのである。聞いているのである。歓喜しているのである。わたしが元気に生きて行くすべてのエネルギーを回向されているのである。阿弥陀仏は回向の、智慧の光である。それを、生まれてきたときから死ぬまで受けている。いな、死んでもとどまらない。それは永遠に続いていく。そういうシステムでしか宇宙は展開していかないのである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信心することは歓喜することなり その4

2018年12月09日 17時49分04秒 | Weblog

いわゆる弥陀の第十八願である。

回向(えこう)は回し向けること。こちらのエネルギーを相手に回し向けて、相手のエネルギーにしてしまうこと。わたしが他力に与(あずか)ることである。太陽の光だってそうじゃないか。エネルギーを放って、そのエネルギーをわたしに回してもらって、届けられたわたしが毎日を生かされているじゃないか。いや、回向の相乗ではないか。互いに回向をし合っているのではないか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信心することは歓喜することなり その3

2018年12月09日 17時46分49秒 | Weblog

諸有(あらゆる)衆生(生きとし生きるもの)は、其の(=南無阿弥陀仏という)名号を聞くなり。聞いて、信心歓喜す。心に信じて歓喜すること、乃至(ないし)一念せん。一念すれば、(阿弥陀仏は)至心に(=真心を尽くして)回向したまふ。彼の(=阿弥陀仏の)国に生まれんと願わしめたまえば、即時に彼の国に往きて生まれたり。(諸有の衆生は)其処(=極楽浄土)に住(とどま)って、退転せず。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信心することは歓喜することなり その2

2018年12月09日 17時44分53秒 | Weblog

諸有の衆生/其の名号を聞いて/信心歓喜すること/乃至、一念せんに/(阿弥陀仏は)至心に回向したままひて/(諸有の衆生を)彼の国(=極楽浄土)に生まれさせんと願いたまふ/(この故に)(諸有の衆生は)即時に往生(成仏)を得て/不退転に住(とどま)れり/          「大無量寿経」より

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信心することは歓喜することなり その1

2018年12月09日 10時53分59秒 | Weblog

信心することは歓喜することなり。今日はそういうことに思いを繋げてみたい。無量寿経を開いて見る。

諸有衆生/聞其名号/信心歓喜/乃至一念/至心回向/願生彼国/即得往生/住不退転 

しょうしゅじょう もんごみょうごう しんじんかんき ないしいちねん ししんえこう がんしょうひこく そくとくおうじょう じゅうふたいてん

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野菜という生きものたちの祝祭の

2018年12月09日 10時43分48秒 | Weblog

さあて、重たい腰を上げるとするか。作業服に着替えて、外へ出るとするか。そろそろ11時だ。娘が、畑の森へ行って、ブロッコリーとカリフラワーを初収獲しているぞ。これまで暖冬だったので、花が咲きそうになっているらしい。山東菜のあるものはすでに菜の花を着けて黄色だ。写真家だったら、野菜という生きものたちの祝祭の、美しい写真が撮れそうだ。自然のものたちの祝祭は、太鼓も打たず、鐘も搗かず、笛も鳴らさず、静かだけれど。でも、聞こえている人たちにはそれが、微かに仄かに聞こえているのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それはなにゆえか なにゆえか 問う

2018年12月09日 10時31分20秒 | Weblog

おお、おお、日よ。寒い庭に射して来る日よ。冬の日よ。忍び足して差し足して、忍び込んで、僕の寒い庭を明るくあたたかくせんとす。おお、日よ。老いない日よ。光よ。あなたが常に若々しくしていられるのはなにゆえか。物質には時間が流れているが、光にはそれがない。僕は老いても、光は老いて行かない。それはなにゆえか。なにゆえなのか。問う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする