「さん」をつけて呼ぶ。敬意を込めて。
人様には、そうする。
これで尊敬を覚えて、それを確かめることができる。
人様を尊敬すべきだ。蔑んではいけない。
蔑んでしまうのは、自分の識見了見が低く止まっているからだ。
常不軽菩薩という菩薩は、「あなたはやがて仏陀となって行かれる人です」と言って、相手に手を合わせて拝まれた。
その一行を一生涯の修行となさった。それ以外の修行よりも優先された。他者を尊敬して礼拝することを仏道修行とされた。
相手を拝むということ。他者を「拝まない人間」に落ちている己が、これで見えて来るのだ。自己を凝視することにもなるのだ。
他者を礼拝することで、自己回復がなされていくのだ。
自己回復は、自己の尊厳が回復されてくることだ。自己を蔑まない、自己を見下さない、自己を卑しまない、そういう方向に向かって行けるのだ。
己を礼拝する。鏡に映っている己に手を合わせる。神社の神棚には鏡がある。自己を写す鏡である。
己の名を呼んでそこにひとり静かに尊敬の「さん」をつける。これで耳がびっくりする。意外にびっくりする。己の価値を見いだし得ないできた者であればなおさらに。
尊敬されるまでには成っていなくとも。己の中に潜む仏性に手を合わせて讃えて行く。そういう修行もあるのかもしれない。
人に会って人に向かって手を合わせることはなかなかできまいが、己という人間に向かっては比較的容易ではないだろうか。己もたしかにたしかに人間として生まれて来ているのだから。