<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

何だっていい。おいしがったらそれでいい。

2021年06月19日 11時21分52秒 | Weblog

「おいしい!」のそのおいしさが分かるのは舌覚。舌には味蕾という場所があるらしい。

 

今年のミニトマトはおいしい。去年まではこうではなかった。大玉トマトの方に箸が延びていた。それが今年はミニトマトが優先になっている。

 

歯磨きをするときに、歯だけではなく、舌を磨くことにしている。舌覚を研ぎ澄ませようという魂胆だ。で、これが功を奏しているのかも知れない。夕食のときに、「おいしい!」を叫ぶことが多くなった。わざとではない。ほんとうにおいしい。

 

食べ物のおいしさをおいしく感覚してくれるとろは舌である。舌覚である。味蕾である。だったら? 人生のおいしさをおいしく感覚する場所はどこなんだろう。目だろうか。耳だろうか。こころだるか。感情なんだろうか。

 

何処だっていいけど、おいしがる方がいい。いいに決まっている。

 

生きていて、で、いちばんおいしい人生の料理は何なんだろうか? 人それぞれだろう。AからZまでありそうだ。いやいや、たったそれくらいの種類くらいではなさそうだ。浅い深いもある。

 

「あの人に会いたい」「やさしい人に会いたい」「美しさが薫り立っている人に会いたい」。

でも会えない。会ってくれる人なんていない。そもそも、いない。それでも会いたがる。勝手に絵を描いて想像をしていればいいからだ。彼女が傍に来てくれる。キスをしてくれる。

そういうキスの喜び方もある。想像の味わい方もある。けっこうこれもおいしい。

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今朝の新聞の読者文芸欄に僕の名前が載った、数ヶ月ぶりにやっとのやっと。

2021年06月19日 11時14分04秒 | Weblog

ふふ、昨日、高校時代の友人の、N君が電話をしてきた。「死んでるんじゃないかと思って、さ」と言う。

「いやあ、死んじゃいないよ、生きているよ」と答える。

 

新聞の読者文芸の欄に僕の名前がこのところずっと出ていない、それを心配してくれていたらしい。投稿はしていたけどいつもいつも落選ばっかりだった。

 

「ああ、生きてたらそれでいいんだ」彼は電話を切った。男性同士の会話は長くは続かない。それでいい。話が保たない。

 

今朝の新聞を開いたら、読者文芸欄に僕の名前が載っていた。数ヶ月ぶりに。N君をほっとさせようという新聞社の見えないこころみなのだろう、きっと。

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24時間ではよろこび尽くせない。

2021年06月19日 10時52分50秒 | Weblog

ふふふ、僕はおかしなことを考える。

 

僕が、Aの僕、Bの僕、Cの僕、Dの僕、Eの僕、Fの僕といる。

 

それで、何人分かの人生をさまざまに鑑賞して過ごしている、らしく見えるのだ。

 

一通りの見方ではなくていい。それはそうだ。それぞれに鑑賞眼が違っている。違っていててもいいだろう。

 

時間軸の縦一列に5~6人、空間軸の横軸にまた5~6人が列んでいる。みんな僕だ。

 

それが時間を追い掛けながら、空間を移動しながら、それぞれでそれぞれの受け取り方をして、その微妙な差異を楽しんでいる。

 

それでも味わい尽くせない。味わい尽くせないだけの風景がある。事実がある。人生の彩りがある。広がりがある。深さがある。味わい尽くせられないで、後ろへ後ろへどんどん捨てられてしまって行く。それが惜しまれる。それをフォローするには幾人もの新しい僕が必要になる。

 

畑に胡瓜が実る。トマトが熟れる。茄子が茄子色に輝く。庭には桔梗が咲いた。透かし百合もテッポウユリも。西瓜がソフトボール大になった。ズッキーニが巨大藪を作っている。金曜が来たらすぐ次の日は土曜日だ。24時間では喜び尽くせない。

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友人は手仕事の天才。仕上がりがきれいだ。

2021年06月19日 07時04分03秒 | Weblog

6月19日、土曜日。午前7時10分。雨は上がっているが、空に太陽はまだ昇っていない。気温22℃。半ズボンでは肌寒く感じる。いい一日が始まりそうだ。この予感に励まされる。

今日は午後から気温が上がるらしい。これで湿っていた土が乾くだろう。そうしたら僕は畑に出て行けるだろう。するべきことは沢山ある。しかし、のろのろなので、仕事量は僅かだ。追いつかない。

昨日とその前日と2日間、友人が来て労働奉仕をしてくれた。西瓜畑、瓜畑に囲いを作ってくれた。猪避けの。近くの他所様の家の竹林に真竹を切りに行くところからスタートした。もちろん了解を得て。

竹の棒を杭にして、猪避けの網を畑の周囲に張り巡らせた。彼はこうした手仕事の天才。天才肌。仕事がきれいだ。しかもてきぱきとやってのける。だが、途中で何度も雨にたたられた。ずぶ濡れになって働いてくれた。友人様々だ。

わたしは彼の畑に出て行って、自ら進んで、こうした労働奉仕をしないのに、彼は意気揚々としてそういう仕事を引き受けてくれる。出来が違う。

お陰で、裏の畑、南の畑、西の畑の猪避け囲いが出来上がった。これでもう西瓜を猪に荒らされることはなくなるだろう。烏が大空の上から狙ってくるので、油断ができないが。西瓜はすでに実を着けている。日一日成長が見て取れる。嬉しい。

まもなく7時半。東の空から太陽が光を投射して来るので、雨の雫を鈴にしたまま庭の木々が耀いている。さ、朝ご飯を食べるとしよう。年老いてもすることが待っているというのは有り難いことだ。

鉢植えの朝顔が勢いがいい。次の週には花を着けて来るだろう。ベランダに、種から蒔いて育てた朝顔の苗が、鉢植えで8鉢ほど列んでいる。朝ごとに水遣りをする。水遣りも楽しいのだ。愛情というのは、水という物体の形を取って、外へ動かして行ける。これは妙味だ。

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