南瓜1個ヤツはまるごと捧げたり 山鳩暮風
☆
俳句のつもりだが、俳句になっていないかも知れない。
☆
己の全体を南瓜のヤツは人間に捧げてしまうのである。できることじゃない。
たかだか畑に蔓を這わせて太っただけの命なのである。それにしては見上げた根性ではないか。
お前にできるか、オレはできない。
できない者に、だから、「お前できるか」などの問いを発したりはしない。
☆
オレは一日煩悩の泥沼でぶつぶつぶつぶつ泡をふかせて、おめいているだけだ。段違い、桁違いじゃないか、だとすると。
南瓜1個ヤツはまるごと捧げたり 山鳩暮風
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俳句のつもりだが、俳句になっていないかも知れない。
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己の全体を南瓜のヤツは人間に捧げてしまうのである。できることじゃない。
たかだか畑に蔓を這わせて太っただけの命なのである。それにしては見上げた根性ではないか。
お前にできるか、オレはできない。
できない者に、だから、「お前できるか」などの問いを発したりはしない。
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オレは一日煩悩の泥沼でぶつぶつぶつぶつ泡をふかせて、おめいているだけだ。段違い、桁違いじゃないか、だとすると。
ああ、美しい絵を描いておきたい。美しい風景を美しく見て美しい絵を描いておきたい。
美しいおんなの人を美しく見て、我がこころに美しい絵を描いておきたい。
この世を構成するすべてのものごとを、クレヨン水彩の絵の具で描いて、それを眺めてうっとりとしておけば良かろうと思う。
さあ、その通りに美しく描けるかどうか。僕にその技術は乏しい。ではどうするか。美しいものを美しく眺めるのだったら、さほどの技術はいらないのかもしれない。
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美しく見えているか。ここがベースになる。
死を解明できなくとも死んで行けるようです。ああ良かったと思います。
だとすると、解明の必要もなくなります。そもそも解明に挑むこともなかったのです。挑んだところで、蟷螂が牛車に斧を振りかざすようなものです。
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委ねてしまえばすむことなのです。自力で死ねることはないのです。死はみな他力です。
死を引き受けてもらえるシステムがあるから、そのシステムに委譲するだけになっています。わたしが考えたから死ねるということはありません。委ねてしまえばすむことなのです。
自己処理をする手間がみな省けています。よかったなあと思います。自分の力によって「死ぬ」ではなく、大いなる力によって「死なされ」て、死が完了します。
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今日この時間はわたしはまだ生の領域に居ます。生きていられることを喜んでいればいいようになっています。有り難いと思います。
さ、これから朝ご飯です。
ラグビーをして良さそうな西瓜抱く 山鳩暮風
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これも入選していました。読者武芸の川柳部門に。川柳と俳句の境目はどうも曖昧のようです。わたしには分かりません。
我が家の西瓜畑の西瓜です、これは。ラグビーボールにそっくりです。小玉です。
ラグビーをして転がしたら西瓜はいっきに割れてしまうでしょうから、試合にはなりませんよね。そんな西瓜玉を抱いているという絵におかしみがあります。
腹の立つことども妻の掃除機に吸わせたりけり さて昼寝せむ
山鳩暮風
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この作品が入選していました。S新聞の読者文芸に。入選は久しぶりです。ピックアップして下さったE選者さま、ありがとうございます。
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この高齢になってもまだ腹が立つんです。腹を立てたところでどうにもならないのに。まだこの通りです。愚かです。嫌になります。
部屋の掃除をしている妻の掃除機に吸わせます。これで消えました。ゴミ芥と同じく簡単に消えてしまえるのです。
腹の立つことどもに邪魔されることがなくなりました。さてしばらく安穏の昼寝に移行します。
僕はこうやってブログを投稿していますが、読んで下さっているかどうか。そういう人がいらしてくださっているかどうか。
それなのに、書いています。ヘンです。
呼吸をしているのと同じようにして、手が動いて文字を書いています。僕の書く文字は幼児の玩具のようです。
書かなければならないことがあるわけでもありません。書きたいことが堆く堆積しているわけでもありません。
物干し竿に雨の雫が落ちずに膨らんでならんでいます。横一列です。夜中に雨が降ったことが分かります。夜が明けました。いまはもう降っていません。風がまったくありません。網戸を通して入って来る風もありません。蝉の声がしています。
僕はクラシックの音楽を聴いています。聴いていると僕は安らげます。平和になります。