春が来てなんにもなけりゃイヤだから花のあなたを花籠に盛る
薬王華蔵
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あなたを花籠に盛ってわたしを春にします。これで絵になります。わたしは一日眺めていられます。
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それでも「わたしにはなんにもない」って思うのなら、どうしようか?
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そんなつまらないわたしなら、わたしを野原へ捨ててしまへ。
春が来てなんにもなけりゃイヤだから花のあなたを花籠に盛る
薬王華蔵
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あなたを花籠に盛ってわたしを春にします。これで絵になります。わたしは一日眺めていられます。
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それでも「わたしにはなんにもない」って思うのなら、どうしようか?
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そんなつまらないわたしなら、わたしを野原へ捨ててしまへ。
ふううん、「相撲」って、「相手を撲る」競技なのだ、字面では。そんなこたあないよね。
阿炎が無敗を続けている。まだ4日目だけど。強いなあ。強い阿炎にはしびれるなあ。阿炎は押し突きが得意。上位陣を総ナメだ。二度目の優勝するかもね。
逃げ場を作っています。此処へ逃げて来ます。苦しいと此処へ逃げて来ます。ほっとします。
此処へ来て嘘八百を列べます。嘘をならびたてるのだから、詐欺師ペテン師に変わりはありません。ただし、これは独り相撲です。土俵の相手もわたしです。操り人形使いをして遊びます。わたしの文学はこんなところです。
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泣きたくてならなくなって此処へ来て嘘八百がする指相撲
薬王華蔵
口中のほくほくほくの里芋のようですわたし主客転倒
薬王華蔵
主と客はときどき入れ替わった方がいいのです。ほくほくほくしている里芋を、わたしにしてしまいます。
いもうとを勝手に産んで手を引いてゴジラの兄がする土筆摘み
薬王華蔵
わたしはゴジラです。わたしには妹がいます。ゴジラの兄とは似ていません。かわいい妹です。寂しいゴジラに耐えられないで、勝手に産んでしまいました。妹の手を引いて春の山を歩いて土筆摘みをしています。
現実に戻ろう。3月14日、木曜日。午前9時を過ぎました。寒いです。雨が降っているのではないが、すっかり晴れているというのでもありません。
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今日は一輪車を推して北の畑に行き、そのままになっている里芋を掘り上げてみたいと思っています。怠け怠けて一冬を越しましたので、里芋も腹を立てて、みんな腐ってしまっているかも知れません。
4月の初めには夏野菜を植え付けます。その準備に取り掛かる必要があります。
「どうにでも変わり得るマシーン」を、誰もがその胸に秘めて生きている。このマシーンを使えば、苦しさも悲しさもあっさり塗り替えられてしまう。そうするとストレスが消える。抑圧がなくなると蝶になって空高く飛びたくなる。固定観念が除去されてしまうのだ。悲しまねばならないという観念は捨てた方がいい。苦しまねばならないという固定観念は取り除いた方がいい。そうできるなら。
劇中人物に同化すると、王子様王女様ではないのに、あっさり王子様王女様に変身できている。遊びに過ぎないのに、得ている快感はほんものである。此処がフシギだ。
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王子様のわたしがいればどうなるかなってみましたスーイスイスイ
薬王華蔵
「であればいいのになあ」も「あったことにして」しまう。このテがある。こうなればもうバーチャルだ。仮想空間の此処で遊ぶ。遊んでいる内に、事実化してしまって、戸惑いすら覚えてしまう。どっちが、「ほんまもの」か区別がつかないから、つけないでおく。「わたし」がさっさと漫画の主人公になってしまうのだ。得ているものが、どっちみち、快感であれば、それでいいのかもしれない。文学に酔い芸術に酔う人は、案外、こんなところに住居を構えている人なのかもしれない。事実と空想の境目が消えてしまうのだから、危険極まりない、のかもしれないが。
幸福ではないのに幸福を感じていられる人もいる。その反対もいる。幸福であるのに、幸福を感じ得ないでいる人もいる。だとすると、「事実」は根拠をなくしてしまう。だったら、つまりが、鼻先にちらついた幸福を感じて生きている方がラクチンではないか。
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快楽のイチゴ新種を食んでいる赤い唇イチゴの赤さ
薬王華蔵