<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

銀河が九天より落ちて来た。李白の詩を読む。

2024年03月18日 17時09分04秒 | Weblog

李白の詩 「望廬山瀑布(廬山の瀑布を望む)」

 

日照香炉生紫煙 日は香炉を照らして紫煙を生ず

遙看瀑布挂長川 遙かに看る 瀑布の長川を挂(か)けるを

飛流直下三千尺 飛流は直下して三千尺

疑是銀河落九天 疑うらくは銀河の九天より落つるかと

朝の日が香炉峰を照らしていると、山全体に紫色をした水煙が上がって来る。何故そうなっているかと遙か遠くを看ているとなるほどと頷けた。瀑布(=滝)がそのまま縦向きに長い川をぶらさげていたのだ。垂直瀑布の飛流は三千尺の深さまでまっすぐに落ちている。これじゃまるで銀河が天のもっとも高い場所から落ちて来たようなものじゃないか。

この詩のベスト・スペクタルシーンは結句だ。断然結句だ。銀河を、詩人李白は、天のもっとも高い位置から引きずり下ろしてしまったのだ! 李白は詩人だ。詩人じゃないと、人の度肝を抜くこういう機知に富んだ風景は描けまい。詩人は言葉を絵の具にして名画を描くことができる。

廬山の渓谷を轟かせてどどどどどどどどと音がしている。耳をつんざくような大きな瀑布の音だ。李白は作曲家だ。モーツアルトだ。

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花粉症症状はまだまだ続きそう。

2024年03月18日 16時49分59秒 | Weblog

クシャミクシャミクシャミ。クシャミが止まらない。杉花粉症だ。お天気がいいとこうなる。クシャミの後は鼻水だらだらだら。

我が家の裏の、人様の家のねきじゃに杉の木の大木が3本立っている。花粉で赤茶色に染まっている。もちろん抗議はしない。世の中は善し悪しお互い様である。

午後から畑の草取りをした。畑は広い。抜いたら、草捨て山まで運んで行って捨てる。途中で、クシャミクシャミになる。何度も、外にある水洗い場まで顔を洗いに行かねばならなかった。

鼻水だらだらの、こんな姿を人に見られたくない。ひょいと人が訪ねてこられたらどうしようと思う。

花粉症はまだまだ当分続きそうだ。でも病院には行かない。薬は飲まない。飲んでも効き目がありそうには思えない。

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お昼はコンビニのおにぎり2個。

2024年03月18日 16時30分24秒 | Weblog

お昼はコンビニのおにぎり。北海道塩昆布おにぎりと、牛蒡入りカシワご飯おにぎり。お爺さんだし、肉体労働なんかしていないから、これで十分だった。車の運転席に座って、一人ぼそぼそと食べた。おいしかった。300円で釣り銭が来た。

 

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李白の詩「汪倫に贈る」の詩を吟じた。

2024年03月18日 13時35分24秒 | Weblog

李白の詩「贈汪倫」

 

李白乗舟将欲行 李白 舟に乗って将に行かんと欲す

忽聞岸上踏歌声 忽ち聞こゆ 岸上 踏歌の声

桃花潭水深千尺 桃花潭の水 深さ千尺

不及汪倫送我情 及ばず 汪倫の我を送るの情に

今日は午前中、公民館で詩吟をお習いした。李白のこの詩をお習いした。秋の市の文化祭でこの詩を吟じることになった。李白はわたしの好きな詩人である。李白の詩の中でもとりわけこの詩が好きだ。美しい景色が見える。こまやかな情が流れている。

わたしは腹一杯に息を吸って、腹式呼吸をして、腹の底から大声を出して、李白になってこの詩を吟じた。

この詩を贈られた友人の汪倫も、この詩をもらってさぞかし感極まったことであろう。桃花潭の潭水の深さは深い。深くて青い。青玉の色をしている。底が見えない。しかし、その深さは我が友人の汪倫が、潭水を見上げる岸の上で歌を歌ってわたしを見送っているこの親愛の情の深さには及ばないだろうと言って、李白ははらはらと落涙をした。

桃花潭(とうかたん)の潭は水の深いところ。桃花潭は固有名詞。近くに桃の畑でもあるのだろうか。陶淵明の「桃花源記」に描かれているような桃源郷かもしれない。

わたし李白は幸福者である。桃花潭の地を離れていこうとして舟に乗っているわたしに、絶壁の岸の上から足踏みをして歌を歌う別れの曲が届けられた。此処の船着き場の、千尺の潭水を鏡にして友人の顔が映っている。潭水の深さは推し量れないほど深い。わたし李白は幸福者である。その潭水の深さよりも我が友汪倫の、送別の、親愛の友情がもっともっと深いのだから。

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陶淵明の詩「飲酒其の十五」を読む。

2024年03月18日 08時37分53秒 | Weblog

陶淵明 「飲酒 其の十五」

貧居して人工に乏しく/灌木は余(わ)が宅(いえ)を荒(おお)う/班班(はんはん)として翔(かけ)る鳥有り/寂寂(せきせき)として行跡無し/宇宙一(いつ)に何ぞ悠たり/人生百に至ること少なし/歳月は相(あい)催して逼(せま)るに/鬢(びん)の辺り早(はや)已に白し/若(も)し窮達(きゅうたつ)に委ねずんば/素抱(そほう)深く惜しむべし

貧乏人の家に住んで手入れも施していないものだから、庭の灌木は我が家を覆い尽くしている始末だ。くっきりと目に映る鳥が目の前を飛び回るが、人が訪ねて来る気配はなく、ひっそりとしている。

頭上のこの宇宙界はひたすら悠久なのだが、人が生きて百歳になる例は少ない。時間は急き立てて我が身に迫り、顔髭はもう白さが目立つようになった。さあさあ、どうしてくれよう。

このまま行き詰まってしまうのか、それとも運命が開けるのか、それは自然な運命のしからしむままにしておこう。

そうでもしておかねば、平生から我が胸にしまって大切にしている落ち着きが、歳月についていけずに泣き出してしまうだろう。

(これはわたしの解釈。底が浅い)

窮達(きゅうだつ)=窮まって達し得たところ。運命。我が身の現在の立ち位置。

素抱(そほう)=いつも胸にしまっている考え。人生設計図か。

結句の「素抱深く惜しむべし」をどう解釈していいものか。平素の我が落ち着きを壊したくない、ということだろうか。よく分からなくて、前記の解釈を施してみた。

人はそれぞれその人の人生観世界観があって、それを大事にして落ち着きを得ている。落ち着きも歳月とともに老いて行く。人生設計がいつになってもその中途にあって揺らぐ。不安になる。陶淵明は、しかし、歳月の揺らぎに揺らがないでどっしりとしていたくなったのだろう。

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蚊がいた!

2024年03月18日 00時26分45秒 | Weblog

蚊がいた!

ぶーん!

ベッドを跳ね起きた!

押し入れを開けて殺虫剤を探し出した!

部屋中に振り撒いた!

3月18日深夜零時で、夏になった❗

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