午後から2時間半ほど、畑に出て草取りに従事しました。6時過ぎには終わりました。抜いた草を、籠に乗せ、いっぱいにして、何度も何度も、草捨て山に運びました。梅の木周辺がキレイになりました。
たったこれだけなのですが、いい一日になりました。清々しい気分になれました。わたしは単純です。
午後から2時間半ほど、畑に出て草取りに従事しました。6時過ぎには終わりました。抜いた草を、籠に乗せ、いっぱいにして、何度も何度も、草捨て山に運びました。梅の木周辺がキレイになりました。
たったこれだけなのですが、いい一日になりました。清々しい気分になれました。わたしは単純です。
濃厚時間と希薄時間。いつも濃厚時間というわけではない。いつも希薄時間ということもない。入れ替わる。
わたしの場合は、仏陀を思っているときは濃厚時間になる。なれる。もちろん仏陀を思わない時間だって、そうなる。そうなることもある。
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仏、普陀落山(ふだらくせん)にいまして、衆のために法を説きたまふ。
(仏説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経より)
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普陀落山は補陀落浄土である。観音様の指定浄土である。ここに仏陀(=ここではお釈迦様)がおいでになっていらっしゃる。聞きに来た大衆に向かって、仏陀は仏法を説いておられる。
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わたしはこの景色を思い浮かべる。と、それだけで、わたしがそこに在住している錯覚を得る。得ることが出来る。
で、仏陀が説かれる仏法が聞こえて来る。来るように錯覚する。それで酔いしれる。仏陀の声を思って泣き出しそうになる。
わたしの時間は濃厚時間になる。
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いまは希薄時間にいる。希薄時間は希薄時間の長所があって、捨て難い。
これから畑に出る。草取りをする。
いまにも雨が降って来そうな空模様だ。でも、スマホの天気予報では降らない、らしい。気温は13℃。腕組みして、ずっとYouTubeで有名なクラシック曲を聴いている。そろそろ退屈虫が這い回る。
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どうしよう?
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昼寝タイムしてもよさそうだが、眠くもない。
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3時間だらだらして過ごす時間の骨密度は、30分間楽しんで過ごす時間のそれを下回る。
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時間にも骨密度があるのか?
ありそうに思える。
それによって、若い時間と老い時間とがある。
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だったら?
刺激的な若い時間を過ごしていたくなる。
老いを受け入れるのもいいことに違いないが、それに抗うのもいいことかもしれない。しばらくは老いが遠退くかもしれない。
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口笛を吹きながらひとり、麦畑ドライブでもして来ようか。
菜の花のおひたし料理がうまい。やわらかくてうまい。春がうまい。茹でて胡麻をふりかけてあるだけなのだが。
菜の花は毎日摘まれて来る。畑から摘まれて来る。籠一杯に積まれて来る。毎朝毎朝、それでも懲りずに、野菜たちは茎立ちをする。
うまいうまいを言って、おれは菜の花料理を食う。これだけ喰えばおれの全身は、菜の花の、花づくしになっていることだろう。
死ぬと書けなくなるから書いておく。書いてどうなることでもないのだけど、ブログを今日も書いておく。
「おれは生きているぞ」ということを書いておく。だから、それで、どうだということもない。
やがて書けなくなるから、書ける内に書いておく、というそれだけの理由から。
「おれは死んだぞ」ということは書けない。書かなくてすんでいる。「死ぬだろう」ということは書けても、「死んだぞ」は書けない。世界中広しといえど、まだ誰も書いていない。
書けるのは「おれは生きているぞ」だけである。このブログも長く長く書いてきた。ある日、書けなくなって無言になる。
春炉守る磨き抜かれし太柱
堀之内和子
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春炉は春になってまだ使われている暖炉、囲炉裏、ストーブ、炬燵。
昔の昔の昔の家には大黒柱があった。丁重にされた。敬われた。威厳があった。暖炉の煤に塗られて黒光りしていた。家の者はそれを磨いていやさらに輝かせた。柱は滑るようにつるつるとした。そこに寄りかかった。
この俳句は回顧だろう、懐かしんでいるのだろう。いまどきそんな古めかしい家などない。荘重な家などない。荘重な家に荘重にして住んでいる人なんていない。
人間に食べられたのが悲しくて悔しくて、恨んで、恨んだまま幽霊になったって白菜さんは、いない。
いたら?
白菜さんはもう二度と畑に出てはこないだろうが、来る年も来る年も畑に出て来て、育つ。
悲しくとも悔しくともないんだろうね。恨んで、恨んだまま幽霊になったりしないんだろうね。上等だね。すこぶる上等だね。
白菜さんは塩漬けの白菜漬けになっている。切り刻まれて食卓のお皿に載っている。平気の平左でいる。にんげんはこうはいかない。
にんげんの役に立ちながら、役に立っているという顔もしない。
なんだかんだ言っているけど終わっちゃうんだぜもうすぐ。なんだかんだも言えなくなってしまうんだぜ。
悲しくて涙を流しているんだけど、ふん、涙も流れなくなっちまうんだぜ。苦しくて苦しくてやりきれない呻き声を立てているけど、声も出せなくなってしまうんだぜ。
春風春太郎よ、凧揚げして遊ぼうか。独楽回して遊ぼうか。ねえ、どっちにする。
ホルスタインの牛がいる。牛舎で干し草を食んでいる。それを見ている。眺める。眺めていられるときだから、そうしている。そうしていられる時間をいとしんでいる。まだ気温が上がらないので、黒白斑(まだら)の牛の鼻息が白い。
そうできないときが、やがて来る。そのときのためにも、いまはホルスタイン種の牛を眺めている。じっとじっと眺めている。干し草を食んでいるだけなのだが、窓から入る光の中の牛は、ぽっかり光り輝いている。
おれは、ひさしぶりに魂のおれになって、それを眺めている。
死んで此処を去れば、もうこれ以上の悪いことをしないでもいいようになる。ストップしてしまう。凍結される。甲子園球場1000倍ほどのたくさんの悪いことも、スプーン一杯ばかりのよいことも、すべての活動が止む。停止になる。どんどん叩いてももう反応しない。そこへ雪が降り積もるだけになる。