<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

新横綱優勝お目出度う

2017年03月26日 18時56分26秒 | Weblog

新横綱稀勢の里逆転優勝お目出度う。負傷した新横綱に勝機はなかったはずなのに、本割りで勝ち進み、同位13勝2敗に持ち込んで、そこから優勝決定戦。決定戦では、使える右手を使って、大関照富士を寄り倒した。前日の鶴竜戦では怪我の左手を庇って力を出せず一気に押し出された。それでもはや先が見えた感じだった。優勝は覚束ないと多くの人が判断しただろう。それがしかしそうならなかった。横綱の意地を発揮したと言えるかも知れないが、ともかく劇的過ぎた。負傷の左手を庇いながら2戦して2勝したのだ。15戦全勝よりももっと価値のある優勝だっただろう。新横綱は賜杯を勝ち取った。表彰式で君が代斉唱をしている間、彼は涙を怺えきれなかった。おめでとう稀勢の里。おめでとう日本人横綱。館内は沸きに沸いた。テレビ観戦者も大きな大きな感動をもらっただろう。

怪我が悪化していなければいいのだが・・・。来場所にも期待したい。国技の威信が回復された。相撲界がいよいよ隆盛するだろう。

 

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今生で法華経に遭えた

2017年03月26日 17時16分20秒 | Weblog

今生で法華経に遭えた。これでさぶろうは尽きている。思い残すことはない。一人の時に己に向き合って威張っていられる。さぶろうは先祖が浄土宗系統の信仰者である。それでも違和感を覚えてはいない。これでいいと思っている。食い違うことはないと思っている。浄土三部経も法華経も仏陀の教えである。同じ陶土で造られた陶器である。形の違い、役割の違い、色の違いがあっても、仏陀の音がしている。仏陀の教えを盛っている。法華経にはこの観世音菩薩普門品のほかにもまだたくさんのチャプターがある。そのどこをいつ読んでも興味津々である。力をもらうことが出来る。さぶろうはその点、まことに幸運である。この人間は今生でとにかく仏陀の教えの法華経に遭えたのである。まるで彼の法華経崇拝者・聖徳太子にでもなれたような喜びがふつふつと涌き出でて止まらないでいるのである。

じゃ、法華経を理解しているか。とてもとても。理解するにはほど遠い。さぶろうが理解できる範囲にはいない。だから仏陀に説いてもらったのである。さぶろうに仏陀に等しい理解力は無い。だから受け入れてにこりにこりをするだけである。声に出して読んで嬉しくなるだけである。法華経はさぶろうの衣の内側に填め込まれた玉珠である。金剛のダイアモンドである。これさえあればどんな失敗も我が歩みの妨げにはならないだろうと思われる。(いやいや実際は、失敗の度にめそめそするかもしれない。泣き出すかもしれないが。そのときは手探りをして衣の内側に縫い付けられている金剛力を確かめようと思う)

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可哀想なことをした

2017年03月26日 16時01分49秒 | Weblog

庭の草取りをしていて、地表近くまで上がってきていた百合の芽を手鍬の刃のところで、ざっくり切ってしまった。それも二度も。残念なことをした。あと一息で地表を割って来られたのに。「ごめんね」を何度も繰り返した。ほんとに可哀想なことをした。来年まで待つしかない。発芽し損なった分、地下の球根を太らせてくれるだろう。

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ヒヨドリはハクモクレンの花片を食べる

2017年03月26日 15時48分16秒 | Weblog

ヒヨドリはハクモクレンの花片を食べてしまう。大輪の椿の花片も。柔らかくておいしいのだろう。でも、かってのように大群をなしてということではなくなった。何処かへ移動して行ってしまったのだろうか。我が家の庭にいるのは残った一つがいのよう。芯のところの花蜜を吸っているのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。カップルだけなら、高が知れていよう。追い立てないで、食べるにまかせておく。昼を過ぎてから小雨が降り出した。午前中は庭の草取りに従事していた。午後は続行が不可能のようだ。本屋さんに行って雑誌を買ってきた。これからそれを開く。大相撲観戦は昨日でおしまいにした。今日は千秋楽だが、もう見る気にならない。

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法華経をいじろうとは思わない

2017年03月25日 18時10分04秒 | Weblog

若し無量百千万億の衆生有りて、諸々の苦悩を受けんに、是の観世音菩薩(のみ名)を聞いて、一心にそのみ名を称(とな)うれば、観世音菩薩は、即時に其の音声を観じて、皆解脱を得せしむなり。

若し時に観世音菩薩のみ名を有(たも)つ者あらば、設(たと)い大火に入るとも、火も焼くこと能(あた)わず。是の菩薩の威神力に由(よ)るが故に。

(「妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十五」より)

この世には数えることも出来ないらいたくさんの人が、その生命をまっとうしようとして生きている。しかしみな多くの苦悩に喘ぎ苦しんでいる。仏はそれを放置されることはないので、仏は仏の救済を実践する者として観世音菩薩をこの世に遣わされた。この観世音菩薩の名を称えせしむるためである。だからもしもこの観世音菩薩の名を一心に称えて呼ぶ者があれば、即時にその人の呼び声を慈悲のこころに観じて、その苦しみを解き放たれるのである。もしも観世音菩薩の名を称え続ける者があれば、たとえ大火の中に入ることがあっても、その火すらその人を焼くことは出来ないのだ。それほどの神(すぐ)れた威力を発揮される菩薩なのである。(さぶろうの意訳 正確ではない)

***

さぶろうは今生で法華経に遭ったことを大切に考えている。仏陀に出遭えたような感動を覚えている。そしてそれが永続している。確信に近くなっている。

法華経をいじろうとは思わない。いじくろうとは思わない。できれば鵜呑みにしたい。呑み込んで牛の胃袋のようにそこで何度も反芻を繰り返していたい。いいとか悪いとは判断はできない。それだけの判断力はない。ないことを知っている。だから、これは直感といってもいい。これを信仰するという直感である。危ない危ない。でも、仏陀を怪しんではいない。従う気持ちで居る。だから、人にも強制することは無論無い。伝道の実践は、だからできない。

これは法華経の中の1品。観世音菩薩普門品。観世音菩薩は仏陀の救済事業の実践者である。強力な実践者である。この菩薩の身近にさぶろうが居ると思うだけで心強くなる。

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威神力は救済力の強さの表徴

2017年03月25日 18時10分04秒 | Weblog

若し無量百千万億の衆生有りて、諸々の苦悩を受けんに、是の観世音菩薩(のみ名)を聞いて、一心にそのみ名を称(とな)うれば、観世音菩薩は、即時に其の音声を観じて、皆解脱を得せしむなり。

若し時に観世音菩薩のみ名を有(たも)つ者あらば、設(たと)い大火に入るとも、火も焼くこと能(あた)わず。是の菩薩の威神力に由(よ)るが故に。

(「妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十五」より)

この世には数えることも出来ないらいたくさんの人が、その生命をまっとうしようとして生きている。しかしみな多くの苦悩に喘ぎ苦しんでいる。仏はそれを放置されることはないので、仏は仏の救済を実践する者として観世音菩薩をこの世に遣わされた。この観世音菩薩の名を称えせしむるためである。だからもしもこの観世音菩薩の名を一心に称えて呼ぶ者があれば、即時にその人の呼び声を慈悲のこころに観じて、その苦しみを解き放たれるのである。もしも観世音菩薩の名を称え続ける者があれば、たとえ大火の中に入ることがあっても、その火すらその人を焼くことは出来ないのだ。それほどの神(すぐ)れた威力を発揮される菩薩なのである。(さぶろうの意訳 =正確ではない)

***

今日はさぶろうの誕生日である。7時頃に生まれたらしい。父が台湾総督府の役人だったので、さぶろうは台北市の生まれである。昭和20年3月。戦争も雲行きが怪しくなっている。爆撃音が鳴り響く中で産声を上げたらしい。押し入れの中で。幼児期はずっと病弱だったらしい。引き揚げ船が21年3月にキールンの港を出港して和歌山湊に着いたようだ。船中腹を下して襁褓が足りずに困ったらしい。長くは生きられまいと心配したらしい。そのさぶろうがそれから長く長く生きた。72才になった。

法華経の中の一つ、観音経の始まりの部分を今日は引いてきて、自らで再認識をしている。観世音菩薩の威神力をいただいてきたおかげで、今日を迎えることができたのだと思う。有難く思う。

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ストレスだって消えてしまう

2017年03月25日 17時12分50秒 | Weblog

ミヤコワスレが咲き出した。薄紫色の。清楚で、上品である。大好きな花なので、若い頃から長く長く大事に育てている。まだ花茎が短い。この花は日陰を好む。日当たりだと枯れてしまう。家の北側の軒下に3列ずらりと植えている。秋口に株分けをして植え替えておいた。施肥もしていたので根株も張って力強くなっている。ここにすかさず雑草が侵入してきて我が物顔をしている。覆い隠してしまうほどに。それで午後から草取りを開始した。移動椅子を移動させながら。座ってゆっくりゆっくり。風が吹いて鼻水が垂れた。クシャミが出ると益々鼻水の量が増えた。人が見ていないから構うことはないのだが、いかにもだらしなく子供っぽかった。根株を上げて株分けした後、陶器の鉢にも植えて育てている。欲しい人があれば、どうぞどうぞでお分けしている。4時で切り上げた。ほぼ完了した。好きなことをしているとストレスだって消えてしまうから不思議だ。

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することがない

2017年03月25日 13時41分13秒 | Weblog

することがない。草取りをしている。俺はどうしてこうも暇人なのだ? 外に出る。と、あちこちやたら勢いよく伸びてきた草が目に入る。それで、そこに座って手を動かす。日が差して、暑くなって、帽子の下の禿げ頭から湯気が出ている。尻のポケットからタオルを引き抜いてごしごし汗を拭う。春のそよ風がひゅぅいと吹いてくる。芍薬の真っ赤な発芽。こちらには優しい声を掛ける。草には掛けない。差別だ。この年になってもこれっくらいの成長度合いか? 自問する。

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土筆には腸(はらわた)がない

2017年03月25日 10時44分36秒 | Weblog

裏の畑に土筆がずらり。ここらではそれを評して「ぞくまんだち」と言う。摘んでお浸し、甘煮にしようか。卵とじにしようか。

ところで、ここで疑問。

昨日買ってきた鰯には腸(はらわた じごろ)があった。裂いてこれを捨て、塩焼きとした。(腸付きでうまいらしいが) 

土筆にははらわたがない。それは何故か? どちらがより進化しているか? 

土筆ははらわた無しである。肛門もない。よって大便もしない。消化酵素も必要がない。心臓、肝臓、腎臓、膵臓、脾臓もない。

人間にもはらわたがある。口がある。肛門がある。喰うからこれを消化しなければならない。消化し終えたら排便しなければならない。複雑だ。こうしてこうしてこうしてエネルギーが醸成される。それで生命になっている。

土筆は単純だ。茎と根と葉と花があって、はらわたがない。光と空気と水と土の栄養分と季節季節の適度な温度があればいい。余計なものなしというわけか。これで彼らなりの生涯を楽しめるというわけか。

 

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此処は歓喜地 即今歓喜 その5

2017年03月25日 10時42分00秒 | Weblog

7)

青蛙曰く、「無なり」。曰く、「空なり」。「黒白(こくびゃく)なし」。「すべて耳目の好き勝手に任されたるのみ」。今日はいくばく寒さが戻っている。彼は僅かに震えている。南無三。南無三宝。しまった、啓蟄の狂い。穴を出るのが2日早かった。

8)

気象庁の発表では、桜の開花宣言は二日遅れて28日の予想となったようだ。それでも此処は歓喜地。即今を歓喜するより他なし。土手に黄金。菜の花満ちる。

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