若し無量百千万億の衆生有りて、諸々の苦悩を受けんに、是の観世音菩薩(のみ名)を聞いて、一心にそのみ名を称(とな)うれば、観世音菩薩は、即時に其の音声を観じて、皆解脱を得せしむなり。
若し時に観世音菩薩のみ名を有(たも)つ者あらば、設(たと)い大火に入るとも、火も焼くこと能(あた)わず。是の菩薩の威神力に由(よ)るが故に。
(「妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十五」より)
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この世には数えることも出来ないらいたくさんの人が、その生命をまっとうしようとして生きている。しかしみな多くの苦悩に喘ぎ苦しんでいる。仏はそれを放置されることはないので、仏は仏の救済を実践する者として観世音菩薩をこの世に遣わされた。この観世音菩薩の名を称えせしむるためである。だからもしもこの観世音菩薩の名を一心に称えて呼ぶ者があれば、即時にその人の呼び声を慈悲のこころに観じて、その苦しみを解き放たれるのである。もしも観世音菩薩の名を称え続ける者があれば、たとえ大火の中に入ることがあっても、その火すらその人を焼くことは出来ないのだ。それほどの神(すぐ)れた威力を発揮される菩薩なのである。(さぶろうの意訳 正確ではない)
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さぶろうは今生で法華経に遭ったことを大切に考えている。仏陀に出遭えたような感動を覚えている。そしてそれが永続している。確信に近くなっている。
法華経をいじろうとは思わない。いじくろうとは思わない。できれば鵜呑みにしたい。呑み込んで牛の胃袋のようにそこで何度も反芻を繰り返していたい。いいとか悪いとは判断はできない。それだけの判断力はない。ないことを知っている。だから、これは直感といってもいい。これを信仰するという直感である。危ない危ない。でも、仏陀を怪しんではいない。従う気持ちで居る。だから、人にも強制することは無論無い。伝道の実践は、だからできない。
これは法華経の中の1品。観世音菩薩普門品。観世音菩薩は仏陀の救済事業の実践者である。強力な実践者である。この菩薩の身近にさぶろうが居ると思うだけで心強くなる。